想像を遥かに超えていた!?偉大なるモンゴル帝国

現在のモンゴル国の元となるモンゴル帝国は、1206年にチンギス・カンが創設した遊牧国家です。モンゴル帝国は、中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルスと称します。

モンゴル帝国とはどんな国家だったのか?創設者であるチンギス・カンについても紹介します。

モンゴル帝国は人類史上大英帝国に次ぐ広大さだった?

モンゴル帝国の創始者であるチンギス・カンと、その兄弟や後継者たちによってモンゴル高原から領土を拡大していきました。

西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国・朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する広大な帝国をつくりました。

モンゴル帝国は、最盛期の領土が地球上の陸地の約25%にあたる3300万k㎡あり、当時の人口が1億人を超えていましたから、その領土は人類史上で大英帝国に次ぐ広大さでした。

初代チンギス・カンによる征服

チンギス・カンは南の西夏(中国西北部に建国した王朝)を服従させ、1211年に天山ウイグル王国を帰順させました。また、モンゴル高原西部のオイラト、トメト、カルルク、西遼などの周辺諸国を帰順または征服し、南シベリアや中央アジアまで勢力を拡大します。

さらに、金朝に遠征して東北地区と華北を席巻、大国ホラズム・ジャー朝に侵攻し、サマルカンド、ブハラなど中央アジアの有名な大都市に多大な被害を与え、ホラズム・ジャー朝を壊滅させました。

その後も、バルフやバーミヤーンといった大きな都市を滅ぼしながら南へ下り、本土に帰還後には、西夏への懲罰遠征に赴いたのですが、西夏を滅ぼす前に病死しました。

第2代オゴディの時代

チンギス・カンの死後、1229年に息子のオゴデイが即位し、金朝との最終的な争いが行われ、1232年に金朝を完全に滅ぼします。1234年には自ら主導したクリルタイ(集会)を開き、モンゴル高原の中央部に首都カラコルムを建設しました。

その後、モンゴル帝国はオゴデイはポーランドへ侵攻しますが、1241年のオゴデイの死去に伴いモンゴルへ帰還しました。

第3代グユクの時代

1241年にオゴデイが急死し、翌年にはチャガタイが病死したことで、チンギス・カンの実子がいなくなり、帝国には権力の空白期間がありました。

次期モンゴル皇帝の選出には、生前にオゴデイが指名していたシレムンを即位させず、1246年にオゴデイ自身の息子であるグユクに即位させましたが、2年後の1248年に崩御しています。

第4代モンケの時代

第4代目の皇帝はモンケで、モンケはチンギス・カンの四男であるトルイの長男であり、オゴデイが行った占領地域に統治政策を受け継いで、西アジアの行政期間を再編しました。

さらにモンケは、南宋との決戦のために長江上流域に侵出しましたが、苦戦を強いられた末に1259年に病死しています。

第5代グビライの時代

1264年にグビライが第5代の皇帝となり、1271年には支配する国の国号を大元と改めました。1274年には元寇として日本に遠征し、1276年にクビライは南宋の杭州を降ろして江南を支配しました。

14世紀以降のモンゴル帝国もチンギス・カンの血統は続いた

チンギス・カンとその血統は、その後も神聖な存在を続けていました。東ヨーロッパのクリミア半島では1783年まで、中央アジアでは1804年まで、インド亜大陸では1857年まで王家がチンギス・カンの血を引くことを誇りとする政権が存続していました。

また、遊牧民のカザフの間では、ソビエト連邦が誕生する20世紀始めまで、チンギス・カンの末裔が指導者層として社会の各方面で活躍していました。

モンゴルをつくったチンギス・カンとはどんな人物?

モンゴル帝国をつくったチンギス・カンは、1206年~1227年の初代皇帝であり、チンギス・ハーンとも呼ばれています。

モンゴル帝国ができる前のモンゴルでは、大小さまざまな集団に分かれていて、お互いに抗争していましたが、そうしたモンゴル遊牧民の部族を一代で統一したのがチンギス・カンです。

チンギス・カンは、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどの国を次々に征服し、結果的に当時の世界人口の過半数を統治しています。それらは、モンゴル帝国が人類最大規模の世界帝国を築き上げたことの証です。

モンゴル帝国はチンギス・カンの死後、百数十年の年月を経て衰えていきますが、中央ユーラシアでその影響は生き続けることとなり、その名前は遊牧民の偉大な英雄として賛美されました。

特にモンゴルにおいては神として崇められ、現在のモンゴル国においても国家創設の英雄として今でも称えられています。

チンギス・カンの生い立ち

チンギス・カンは、11世紀に有力な集団の遊牧民族でした。その遊牧民は、バイカル湖から南に下ってきてモンゴル高原の北東部に広がっていました。

チンギス・カンの父親はボルジギン氏系キヤト氏(カブル・カンに始まる氏族集団)の首長であるイェスゲイで、母親はコンギラト(モンゴル高原東部の遊牧民族)出身のホエルンです。

チンギス・カンは1162年5月31日(1155年、1167年という説もあり)に生まれ、1227年8月25日に死去したとされていますが、はっきりした年月は分かっていません。

イェスゲイの長男として生まれたチンギス・カンは、テムジンという名前でした。

チンギス・カンによる諸部族の統一

父親の死後、テムジンはトグリル・カン(モンゴル高原中央部の有力部族ケイレトの王)やジャムカ(モンゴル部ジャジラト氏の首長)の協力を得て、次第にモンゴル部の中で注目される存在となり、牧テムジンは遊民にとって優れた指導者とみなされるようになりました。

トグリル・カンが内紛によって、王の座を追われたトグリルとテムジンは、盟友の関係にあったことから同盟を結び、テムジンの援軍によってトグリルはケレイトの王位に復帰しています。

その後両者は、中国の金朝に背いた高原東部の有力部族タタルを討ち取り(ウルジャ河の戦い)、この功績によってテムジンは中国の金朝から『百人長』(ジャウン)の称号が与えられ、同時にトグリルには『王』の称号が与えられました。

1196年テムジンは、ケレイトとともにキヤト氏集団のジュルキン氏を滅ぼし、キヤト氏を武力により統一しました。翌年の1197年には高原北部のメルキト部に遠征し、1199年にはケレイト部やアルタイ山脈方面のナイマンを滅ぼしました。

1200年、テムジンは東部にケイレトの援軍を頼み、モンゴル部内の宿敵であるタイチウト氏とジャジラト氏のジャムカを征服し、大興安嶺方面のタタルをも滅ぼします。

1202年にはナイマンとメルキトが同盟を結びケレイトに攻めてきましたが、テムジンとオン・カン(遊牧民族集団ケレイトのカン)が、これを破り、高原中央部を制覇しました。

しかし、同年にオン・カンの長男であるイルカ・セングンとテムジンとの間で諍いが起こり、オン・カンは1203年、セングンとともに突如テムジンの牧地を襲います。テムジンはオノン川から一旦北に逃げて体制を整えます。

その後、高原に戻ったテムジンは兵力を集め、計略を用いてオン・カンの本体を急襲して圧勝します。これにより、高原最強だったケレイト部は滅び、高原の中央部はテムジンによって征服されました。

モンゴル帝国の建設

モンゴル高原の中央部を支配したテムジンは、1205年に高原内の大勢力だった西方のナイマンと北方のメルキトを破り、宿敵のジャムカを捕らえて殺害しました。

やがて南方のオングトもテムジンの権威を認めて服従したことで、高原の全遊牧民族はテムジンの率いるモンゴル部に支配されました。

翌年の1206年2月、テムジンはオノン川上流の河源地で諸部族の指導者を集めて最高意思決定機関を開き、諸部族全体の大ハーンに即位し、モンゴル帝国を開きます

『カン』や『カアン』にはどんな意味があるの?

12世紀のモンゴル、ケレイト、ナイマンといった部族では、『カン』(ハン)を部族の長の称号でした。ですから、モンゴル帝国を築いたチンギス・カンも、彼が生きていた頃はチンギス・カンと称されていました。

チンギス・カンの跡継ぎである三男のオゴデイは、モンゴル帝国の最高君主であり、他のカンと称する人たちとは別格であることを示すために『カアン』(ハーン)という称号と定めました。また、正式に大モンゴル国の最高指導者を『カアン』と称したのは1250年代とされています。

モンゴル帝国が崩壊した後も、モンゴル高原ではチンギス・ハーンの子孫でない者が、ハーンの位に就くことはタブーとされ、たとえ実力でモンゴルを制覇してもチンギス・ハーンの子孫でなければ『ハーン』にはなれませんでした。

しかし、15世紀にこの掟を無視したのがオイラト(モンゴル高原の西部から新疆の北部に居住していたモンゴル系民族)のエセンであり、彼はモンゴル高原をほぼ統一するほどの勢力を誇っていましたが、1454年にハーンを即位したものの、翌年にオイラト内部でエセンに対する反乱により殺害されました。

もうひとつの異例としては、17世紀の満州でヌルハチが『ハン』に即位して後金という国家をつくりました。後金はヌルハチの子であるホンタイジがモンゴルのチンギスの子孫のハーンを服従させたことから、自らを元の大ハーン政権の後継王朝と位置付けました。

まとめ

モンゴル帝国は、1206年にチンギス・カンが創設した遊牧国家で、最盛期の領土は地球上の陸地の約25%にあたり、当時の人口が1億人を超えていましたから、その領土は人類史上で大英帝国に次ぐ広大さでした。

モンゴル帝国は、1635年に後金により滅ぼされましたが、創設者であるチンギス・カンは、遊牧民の偉大な英雄として賛美されました。

特にモンゴルにおいては神として崇められ、現在のモンゴル国においても国家創設の英雄として今でも称えられています。

モンゴル帝国の創設以来、チンギス・カンの血統は遊牧民のカザフの間で20世紀始めまで続き、チンギス・カンの末裔が指導者層として各方面で活躍していました。