変わりゆくモンゴルの家事情。移動から定住化へ

中世時代、モンゴルという名前は全世界を恐れさせました。

日本史にも、その名前はまず間違いなく記されているでしょう。鎌倉時代、海を越えてモンゴル人と鎌倉武士が戦ったという事実があるほど、世界中に影響を与えていたのです。

広い世界の長い歴史の上で、血気盛んな民族はたくさんいました。

それこそ、戦国時代の日本人なんていうものは、今では考えられないくらい獰猛だったのです。

しかし、当時のモンゴル人は血気盛んであるというだけでなく、その侵略スピードは類を見ないものがありました。

実際、欧州の国々もそのスピードに畏怖していたという節があります。

それでは、なぜモンゴル人は広大なユーラシア大陸を股にかけて征服することができたのでしょうか。

それは、モンゴル人が独自に持つ、遊牧と言う概念があったためであると思います。

モンゴル人はどのような場所でも家にできる民族でした。それが例え戦場であってもです。

しかし、そんなモンゴルの遊牧文化が今、失われようとしているのを知っていましたか?

モンゴルの家・住居事情はここ100年でかなりがらりと変わってしまったのです。

今回、本記事ではモンゴルの現在の家事情、モンゴル人の精神に根強い遊牧民としての葛藤についてをご紹介していきます。

モンゴルの基本情報

モンゴルはユーラシア大陸北東部にある人口350万人程度の国です。

その国境をロシアと中国に面しており、海は一切ありません。

歴史的にロシアや中国によって支配されていたということもあり、残念ながら肥沃な南モンゴルは現在、中国の内モンゴル自治区になってしまっています。

実際、モンゴル国全体よりも、モンゴル自治区にいるモンゴル民族の方が人口が多いのです。

大地は草原か砂漠であり、農業には適していません。そのため、マンパワー不足が有史以来からずっと続いています。

しかし、農業に適さない土壌の代わりにモンゴルには豊かな地下資源があります。

銅資源は世界で4番目を誇る銅鉱山をロシアと共同で開発しており、他にも銀やウラン、石炭などの掘削が盛んです。

特に石炭はほとんどを中国に輸出しており、モンゴルのGDPを支えます。

最近では中国が中々石炭を買ってくれないという事情もあるため、対日輸出も強めていることを知っていましたか?

このように、モンゴルは決して豊かな国ではありませんが、今後、地下資源を念頭に置いた発展が望める国家なのです。

社会主義政策による民族主義の弾圧

現在でもモンゴルは国家区分で言うと、開発途上国です。

開発途上国とは、経済発展や開発の水準が先進国から見て遅れており、まだまだ発展の余地と開発の余地を残している国々のことを指します。

モンゴルの開発が遅れてしまったのは、長らく最後の中華帝国である清の支配下にあったこと、そして何よりも清からの独立後、ソビエト連邦寄りの政策を取ったことによる、社会主義化に原因があります。

清の後継国として建国した中華民国がモンゴルの独立を認めていなかったため、ソビエト連邦による庇護が必要でした。

独立を守るため、社会主義化は逃れられなかったのかもしれません。

こうした時代背景により、モンゴルはソビエト連邦に次ぐ、世界で二番目の社会主義国家として生まれ変わりました。

ソビエト連邦によっても、モンゴルという立地条件は満州地域を実質統治していた当時の大日本帝国や中国との緩衝地帯として地政学的に重要な場所でした。

そのため、ソビエト連邦はモンゴルへの資金援助を惜しまず、蜜月関係はソビエト連邦崩壊まで続くことになります。

しかし、それによってモンゴル民族の伝統が失われ始めたのは確かです。

社会主義と一口に言ってもレーニン主義や毛沢東主義など、様々な派閥があります。基本的には宗教や民族主義を認めないという考え方であったため、その矛先はモンゴルの文化にまで影響を及ぼしました。

民族主義の否定により、モンゴル人が住む家は次第に移動式から定住式に代わっていったと言われています。

社会主義政策放棄による経済の開放

社会主義時代は確かにモンゴル文字の廃止やチベット仏教の弾圧といったような、文化継承に悪影響を及ぼすことがたくさんありました。

しかし、それでもゲルをはじめとする移動住宅への弾圧は少なかったと考えられています。

どちらかというと、モンゴル人の定住化を進めてしまったのは、社会主義政策放棄による経済の開放が要因です。

社会主義時代は確かに現在より貧しくはあったのですが、今日食べる食事に困ったりする極貧困層は少なかったと考えられています。

必要最低限の食事は保障されていたため、地方部に住んでいても生活はできたのです。

ところが、1989年末から民主化運動が起き、1990年7月、複数政党による自由選挙の実施により、新憲法への改定が行われ、社会主義国家ではなくなりました。

この直後、ソ連経済が破綻したことを受け、それまで経済のほとんどをソ連からの莫大な資金援助によってまかなってきたモンゴルは混乱。

自由経済になったことにより、最低限の生活も保障されなくなったモンゴルの人々は都市に仕事とお金を求めて集まってきたのでした。

ウランバートル市への一極集中

ソビエト連邦の後継国となったロシア連邦から、それまでしてきた資金援助の返還すら求められてしまい、さらに混乱していたモンゴル経済でしたが、1994年頃から西側諸国の投資によって徐々に盛り返していきます。

しかし、投資の中には定住文化しかない西側諸国の不動産投資も含まれています。

これにより、ウランバートル市で欧米風のマンションやアパート、家が完成したことにより、更に都市部への集中が生まれます。

実は、現在ウランバートル市はモンゴル国内の人口のほとんど半分を抱え込んでいる、異質な一極集中状態に陥っています。

都市へ定住する遊牧民の増加はストリートチルドレンの誕生、家畜の放棄と大量死など、様々な社会問題を生み出すことになりました。

ウランバートル市街地や住宅の特徴

前述の通り、ソビエト連邦にとってゲルをはじめとする文化は主義と相反する存在でした。

そのため、ゲルは社会主義時代、住宅として認められておらず、集合住宅への建て替えが進められました。

市街地はロシア様式に計画形成されていましたが、ゆったりとした空間を作るというこの様式が、土地に執着せず、定住という文化がなかったモンゴル人にとっては非常にマッチしていました。

しかし、その空間構造は商業をはじめとする経済を回していくのに、極めて不都合な構造でした。

経済の自由化後、こぞってその空間にキオスクと呼ばれる小店舗が乱立。

ある程度の経済効果が見込まれますが、都市景観を著しく害することになります。

生まれたゲル地区

民主化以降、ソビエト連邦と共産党の支配から脱却したモンゴルはモンゴル人としての文化を取り戻すようになります。

1999年、住宅法の制定により、自分の土地や建物の所有が自由になったことを受け、その上に建てられるゲルも住居として認められるようになりました。

こうして、ゲル地区が生まれたのです。

ゲル地区の区画道路はゲルの資材を搬入するためのトラックを走らせるため、広く設定されています。

更に、ゲルが移動できる住居という性質があることから、制定された区画なんてあってないようなもので、無造作無作為にばらまかれるように建造されている例も少なくはありません。

土地の不法占拠なんていうものも、ゲル地区ではあるあるなのです。

もちろん、上下水道は整備されておらず、下水処理等の衛生問題にまで発展しています。

サマーハウス地区

ソビエト連邦の影響下で、ウランバートルには夏の別荘地区がありました。

当時は政府機関や国営工場が私有していましたが、民主化以降は私有化され、住居として利用されています。

小屋をちりばめられたような景観をしており、道路も整備されていない地区もあるんだとか。

上下水道も未だに整備されておらず、湧き水で生活を支えています。

ゲル住居とそこまで変わらない生活を送っているようですが、最近は建て替えやインフラの整備が進み、中には簡易浄化槽を設置している地区もあるため、今後はある程度住環境が改善されていくでしょう。

戸建て住宅

民需化以降、民間企業が戸建て住宅を建設、分譲するようになりました。

ウランバートル市は広いモンゴルの中でも数少ない可住地域の一つです。そのため、2階建てや3階建てなど、最小限の土地で住居を広く持とうという工夫が見られます。

住宅の周りは鉄や木で作られた柵で囲われており、セキュリティも万全。

更に、上下水道、電気等のインフラ完備!

モンゴルの戸建て住宅の住環境は日本のそれと変わりません。

しかし、居住できる人は芸能人、政治家、実業家といった人に限られます。

戸建て住宅というのは民主化30年経つ今でも特別な住宅と言えるでしょう。

ゲル地区の状況をもっと詳しく知ろう!

ゲル地区は、元々遊牧民であった者達が仕事を求めてウランバートル市に移住してきたものの、住める家がなく、購入した土地にゲルを建てて始めたという経緯があります。

現在でもゲル地区は低所得者層の居住地域とされており、スラム的な様相さえ示してしまっているのです。

現在、ゲル地区がどのような形で存在しているのか、その概況を調べてみました。

調査概要

調査は2013年の夏季及び冬季に行われています。

ヒアリング調査、実測調査、写真撮影などによって調査されました。

ツールとしてのゲル

戸建て住宅が持てない人がゲルを建てるという例もたくさんありますが、現在では家族構成の変化に応じて適宜安価なゲルを使って対応していくという動きがみられています。

日本では、昨今3世代以上が一緒に住むことが少なくなっており、いわゆる核家族化が進んでいます。

モンゴルでも同じように、親の土地の上ではあるものの、別件にゲルを建て、そこに子世代が住むというような様相を示しているのです。

移動式住居であるゲルはコストが安く、極めて短時間かつ自力で建設可能な点、氷点下でも石炭ストーブさえあれば温かいというような住環境から、低所得者層にはうってつけの住居。

こうして、ゲルは住環境や家族構成の変化に柔軟に対応できるツールとして活躍するようになっています。

住宅街のコミュニティ

次に、住宅街に住む人々の近所付き合いはどうなっているのでしょうか。

調査結果によつと、居住年数5年以下の居住者の近所付き合い人数は7人未満の割合が最も多く、現在でも増加傾向にあります。

2002年調査で71.4パーセントと、2013年で95.2パーセントにまで増加しました。

居住年数が多ければ多いほど、近所付き合い人数が多く、新規居住者が特に付き合いの意識が低いことがわかっています。

もちろん、居住者の多くが環境を良くすることや、問題への共同参画が必要であるとしていますが、その一方でそういった協力活動が行われていることを全く知らず、孤独になっている人が多いそうです。

更に、元々モンゴル人は家族や親族、友人といった近しい関係性でコミュニティと絆を形成する民族性であるため、隣人同士や周囲のことに関心がない人も増えていってしまっているのです。

ゲル地区は、安価で簡単に組み立てられてしまうという性質上、いつの間にか隣人が引っ越してしまった、そう思ったらまた違う人が入ってきたというような入れ替わりも多くあるため、それが近所付き合いへの意識を下げてしまっている一つの要因なのかもしれません。

まとめ

遊牧民の家

ソビエト連邦と共産主義による民族文化の排斥、失業によるウランバートル市への人口流入を乗り越え、今でもなお、たった10%ほどのモンゴル人が遊牧的な暮らしをしています。

とは言え、ケータイが普及していたり、民族衣装ではなくジーンズやTシャツといったような洋服が流行っていたりと、我々日本人のイメージとは少し違うかもしれませんね。

しかし、彼らは未だに遊牧民として、羊や馬といった家畜と共に移動しながら暮らしています。

家畜の餌となる牧草を求めて移動するのが基本の彼らにとって、ゲルという簡易的な移動式住宅は強い味方になってくれます。

上下水道はもちろん通っておらず、電気も不自由なほどです。

ウランバートル市に比べれば圧倒的に不自由な暮らしで、都会の仕事に魅力も感じる若者も少なくはありません。

これからは更にウランバートル市をはじめとする各都市への人口流出が懸念されています。

いつか、モンゴルから遊牧民が消えてしまう・・・そんな恐れもすごく現実的になってしまっているというのが今のモンゴル事情なのです。