日本にとっては、モンゴルといえばモンゴル人力士の活躍のイメージが強いでしょうか。留学生のモンゴル人の友人がいる方もいらっしゃるかもしれません。日本に暮らすモンゴル人は今や一万人以上。それもそのはず、モンゴルで「私は日本人です」と言えば悪い顔はされないほど、モンゴルの人々は日本が大好きなんです。日本を愛してくれている筋金入りの親日国でもあるモンゴルと日本の関係について、ご紹介します。
日本とモンゴルの関係は?
親日国のモンゴルですが、外交関係でみると日本とモンゴルの外交関係樹立は1972年と、意外と歴史が浅いです。2017年に外交関係樹立45周年を記念したさまざまな行事が行われたのも、記憶に新しいことです。
「第三の隣国」としての戦略的パートナーシップ
二国間の外交関係樹立は、1972年2月24日、在モスクワ日本国大使館において、新関欽哉・在ソ連日本国特命全権大使とN. ロヴサンチュルテム在ソ連モンゴル人民共和国特命全権大使(どちらも当時)の間で締結されました。それ以前は8年前の1964年に行われた東京オリンピックにモンゴル人選手約30人が参加するなどの交流はあったものの、両国に大使館が置かれ正式な関係が始まったのはこの年からでした。それでもまだ、当時は今のように自由に旅行したり、留学したりといった民間での往来はあまり活発でなかったようです。
出典:駐日モンゴル国大使館
民主化と日本の支援
交流が活発化したのは、モンゴルが民主化して「モンゴル人民共和国」から現在の「モンゴル国」になった1990年代から。日本政府は世界でも最も早くからモンゴル国の民主化を支援し続けており、特に市場経済体制への移行に伴う社会的混乱のさ中、社会インフラを始めとする経済的援助を行いました。「苦しい時に惜しまず助けてくれた友」として、日本への感謝の気持ちを抱いてくれているモンゴル人は多いのです。
1991年には海部俊樹総理が西側諸国の政府首脳として初めてモンゴル国を訪問。モンゴル国の民主化改革に対し国際的に支援していくことを表明しました。さらに同年以降、日本は東京で世界銀行と共催の「モンゴル支援国会合」を10回開催しました。そして政府開発援助(ODA)の対象国として、食料・公共輸送・通信・エネルギー・教育・保健医療・文化などあらゆる分野に援助を行い、近年は首相、外相といったハイレベルの相互訪問が増えています。また、日本と北朝鮮の政府関係者が直接対話する機会のある数少ない国際会議「ウランバートル対話」が毎年開かれていることも、日本にとっては重要なことです。
ロシアと中国という大国に挟まれた地理的状況にあるモンゴルにとって、二つの隣国に過度に依存することなく安定的に発展するためにも日本を「第三の隣国」として重要視しており、日本にとっても北東アジアの平和において重要な役割を果たすモンゴルとの関係は大切なものです。「戦略的パートナーシップ」の構築という共通目標の下、二国間の協力関係は順調に発展していると言えるでしょう。
かつて天皇陛下もご訪問
平成19(2007)年7月には、当時皇太子殿下であられた現在の天皇陛下もモンゴルをご訪問になり、ウランバートルとハラホリンを訪れられました。先の大戦での日本人抑留者らが眠る日本人墓地跡を訪ねられた後、ナーダムのご見物や、ウギー・ノール(湖畔)でのトレッキングを楽しまれたそうで、「モンゴルの自然は,本当に印象的でした。果てしなく続く草原の景観はすばらしいものでした」と語られています。
日本が苦しい時も真っ先に駆けつけてくれたモンゴル
2011年3月11日に東日本大震災が起こった際には、Ts.エルベグドルジ大統領とS.バトボルド首相(どちらも当時)が当日中にお見舞いの書簡を送り、15日にはモンゴル非常事態庁の長官を隊長とするレスキュー隊員12名で構成された緊急援助隊が来日、宮城県での捜索活動を行いました。Ts.アマガランバヤル非常事態庁長官は「日本はモンゴル国を社会主義体制から民主主義・市場経済体制へ移行する厳しい時期に最も大きな支援をしてくださった国でありーーー 今回の災害を受けて、モンゴル国としてはできる限りの事はすべてやらせていただきたい」と語ってくれていました。さらにモンゴル国政府からの援助物資と一緒に、市民から毛布・セーター・マフラー・帽子・手袋などの支援物資が送られ、石巻市、南三陸町、気仙沼市の被災者らのもとに届けられました。
日本に住むモンゴル人ってどれくらいいるの?
日本に在留するモンゴル人の総数は、12,012人(2019年6月現在,法務省在留外国人統計)と言われています。一方、モンゴルに在留する日本人は497人(外務省海外在留邦人数調査統計:令和元年版)です。
在留モンゴル人の中では留学生が最も多く、近年は技能実習生などの制度で来日する人も多くなっています。実際に首都・ウランバートルを歩いていると、至るところに日本語教室がオープンしており、日本は留学先として最も人気のある国の一つであることが分かります。
日本国内では在日モンゴル人会(AMJ)、モンゴル留学生会など、モンゴルでは日本留学帰国学生の会 (JUGAMO)も活動しています。
日本と言えばアニメ! 親しみのある国
日本のアニメは世界的に有名ですが、モンゴルでもワンピース、ナルトといった日本のアニメは大人気。ドラえもんを観て育った、なんて子供たちも少なくありません。その影響あってか、モンゴルの一般教育学校(小中高一貫)で行われる選択式の外国語の授業でも日本語が人気なんだとか。日本式の教育を取り入れた私立学校も何校かあります。ひらがな、カタカナ、それぞれ50字覚えるだけでもかなり大変なはずですが、それでも勉強してくれるのは日本人としてうれしいことですよね。
筆者も、日本に行ったことがないのに「アニメで日本語を覚えた」と日本語ペラペラなモンゴル人に出会ってビックリしたことがあります。
日本の歌謡曲も人気?
モンゴルの若者たちが好きな日本の歌に、松たか子さんの『夢のしずく』(1999年)という曲があります。なぜこんなに有名になったのかははっきりと分かっていないのですが、20代くらいのモンゴル人は歌い出しを流せばだいたい知っている、という印象でした。「日本では『アナ雪』のエルサの声優もやった人だよ」とモンゴル人に教えてあげると、興味深そうにしてくれます。日本ではどちらかというと名女優さんのイメージが強い松たか子さんですが、モンゴルではむしろ歌手として有名になっているようです。
他にも、ピンキーとキラーズの『恋の季節』(1968年)や千昌夫さんの『北国の春』(1977年)も、モンゴル人歌手がカバーしたということで有名な曲だそうです。昭和の歌謡曲がモンゴルのお店のBGMになっていたりするのは、なかなかおもしろいですよね。
信頼の日本製品
日本の企業や製品も、続々とモンゴルに進出しています。日本製品は高品質、安心というイメージがモンゴル人の間では強いようです。
財務省貿易統計によると、2019年の二国間の貿易額は約659億円。主要品目はモンゴルから日本が鉱物資源(石炭,蛍石)、繊維製品、一般機械、日本からモンゴルは自動車、一般機械、建設・鉱山用機械となっています。
モンゴルに参入した主な企業の中で、ロート製薬の目薬はもともと目薬を差す習慣のなかったモンゴルでもヒットし、一般的な薬局でも手に入ります。また100円ショップのダイソーやキャン★ドゥも店舗を増やし、地方都市にも展開するなど、すっかりおなじみになりました。
ウランバートル各地に展開する化粧品販売店のMILD cosmeticsでは、日本の化粧品を専門的に扱っています。保湿力の高い化粧水などは、乾燥の激しいモンゴルでも大人気。お気に入りの化粧品がある日本の女性も、モンゴルに行っても安心です。
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東芝やシャープといった日本発の家電も、高品質なものとして選ばれています。おもしろいことに、キャノンは日本ではもっぱらカメラのイメージですが、モンゴルではかつてキャノンのコピー機がよく使われていたそうで、今でも「コピーする」ことを「キャノンする」と言うくらいです。
ちなみに製品ではありませんが、モンゴルの通信大手であるモビコム社の会長・社長が日本人であることも有名です。
モンゴルでもへっちゃら! 日本のクルマ
モンゴル人の生活に欠かせない自動車も、日本車が多く出回っています。ウランバートル市内を走る自動車の55%が日本車というデータも出ていたほどです。タウンユースではトヨタのハイブリッドカー・プリウスがスタンダード。ウランバートルの道路の車列を見れば、数台に一台は必ずプリウスと言って間違いないと思います。一方、起伏の激しい未舗装道路の多い地方では、ヴォクシーやノアなどのミニバンをよく見掛けます。なぜか日本企業の社名がに荷台にプリントされた軽トラが走っていることもあり、日本の中古車のシェアが根強いことがわかります。
また、すべてではありませんが、消防車や救急車も日本から寄贈されており、それを示す日の丸がついています。
忘れちゃいけない、相撲と日モン関係
日本人力士を脅かす勢いで活躍の目覚ましいモンゴル人力士たち。それも手伝って、「日本と言えば相撲」というイメージがモンゴルでも強いです。
モンゴル人は日本人よりも相撲ファン!?
大相撲の中継は、モンゴルのテレビでも放映されています。モンゴル人力士たちの活躍を誇らしく思っていることはもちろんですが、相撲自体への関心も強いようです。日本では、相撲のルールなどあまり細かいことまで実は知らない若い方も多いのではないでしょうか。モンゴル人と仲良くなるなら少し勉強しておかないと、「なんで自分の国の国技のことをちゃんと知らないんだ」と叱られてしまうかもしれません。
母国に貢献するモンゴル力士たち
愛国心の強いモンゴル人力士たちは、母国モンゴルの教育に力を入れたり、相撲の普及に努めたりしています。
2018年には、元横綱の日馬富士ことD.ビャムバドルジ氏が日本式の教育を取り入れた小中高一貫校「新モンゴル日馬富士学園」を創立しました。ここから未来の日本・モンゴル関係の懸け橋となる人材の輩出が期待されますね。
出典:
“Шинэ Монгол Харүмафүжи” сургуулийн албан ёсны нээлт – 在モンゴル日本国大使館
また、現役横綱で日本への帰化でも話題になった白鵬関は、オーダム・モンゴル学校の名誉理事になっているほか、子供相撲大会「白鵬カップ」の開催、相撲部屋の設立などを手掛けています。さらに元・旭鷲山ことバトバヤル氏は政界に進出、元・朝青龍は実業家になるなど、母国モンゴルで活躍の場を広げています。
日本とモンゴルの歴史
モンゴルの使者を弔う元使塚
モンゴル帝国と日本の関係と言えば、13世紀後半、日本では鎌倉時代に起こった元寇(蒙古襲来)が知られています。
チンギス・ハーンの孫であるフビライ・ハーンの時代、モンゴル帝国(元朝)と属国だった高麗により、文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の二度にわたって襲来しました。当時船上にいた元軍が凄まじい暴風雨に見舞われ、結果的に日本が勝利したという「神風」のエピソードも有名です。
ただ、それに伴い犠牲になったモンゴルの使者が、日本で大切に弔われていることはあまり知られていないのではないでしょうか。
神奈川県藤沢市にある常立寺には、「元使塚」があります。
文永の役の翌年、元は服従を求める国書を送るため、使者を出しました。しかし、鎌倉幕府の執権であった北条時宗の命により、杜世忠ら5人の使者は龍ノ口刑場で打首にされてしまいます。そして異国の地で無念にも命を落とした彼らの墓として、五輪塔が設置されました。
現在の元使塚は1925(大正15)年になってから建立されたもので、モンゴル人力士らや来日したモンゴルの要人たちが参拝するそうです。
出典:常立寺 – 鎌倉タイム
また、鎌倉市にある円覚寺は、二度の元寇で犠牲になった戦没者の慰霊を目的の一つとして建てられた寺院です。戦死した日本の武士たちと、モンゴル、高麗の元軍が今でも分け隔てなく供養されています。
ノモンハン事件(ハルハ河戦争)
時は20世紀に移り太平洋戦争が勃発すると、日本と当時ソ連の衛星国とされていたモンゴルは、再び敵国同士になってしまいます。
日本とモンゴルが全面的にぶつかるのが、1939年のノモンハン事件です。モンゴルではハルハ河戦争と呼ばれている、日本と満州、ソ連とモンゴルを巻き込んだ国境紛争の一つでした。
戦闘は5月から9月の約4か月間にわたり、結果的にはソ連とモンゴル側の主張していた国境線を維持する形で停戦となりましたが、日本軍は約7700名、ソ連は約9700名、モンゴルも約280名の戦死者を出したと言われています。
この紛争で功績を残したソ連の軍人ゲオルギー・ジューコフの名を冠した博物館が今でもウランバートルの中心地にあり、誰でも訪れることができます。2019年にはモンゴルとロシア両政府が「ハルハ河戦争勝利80周年」記念行事を行いました。
日本人抑留者の残した足跡
戦後、極寒のモンゴルで抑留生活を送った日本人の先祖がいることも、忘れてはなりません。
「シベリア抑留」という言葉で教科書やメディアに登場することがありますが、モンゴルにも1947年まで約1万2000人の日本人が抑留され、厳しい寒さと過酷な労働に従事したことで1600人以上が命を落としたと言われています。
日本人抑留者らが携わった建造物には、政府庁舎(国会議事堂)や国立オペラ・バレエ劇場などといったモンゴルの主要な建物があり、70年以上経った現在でも現役で使われています。訪れてみると、日本人の汗と涙を感じ取ることができるかもしれません。
犠牲になった日本人を偲ぶため、首都ウランバートルの郊外に日本人慰霊碑があります。
慰霊碑には「さきの大戦の後1945年から1947年までの間に祖国への帰還を希みながらこの大地で亡くなられた日本人の方々を偲び平和への思いをこめてこの碑を建設する」と刻まれています。
ダンバダルジャー墓地の跡地である慰霊碑の一帯が日本人墓地跡として、今でも人々が慰霊に訪れています。
ウランバートル中心部から北東へ約15キロの位置にあり、公共のバスでも行くことができます。ウランバートルへ旅行の際はぜひ訪ねたい場所の一つです。
現在、そして未来へ
日本とモンゴルの過去には暗い歴史もありましたが、前述のように1990年のモンゴルの民主化以降、両国の友好関係は急速に発展してきました。
日本の援助でつくられた「太陽橋」
日本はモンゴルの都市部や地方で病院、道路などのインフラ整備を数多く援助してきました。
なかでも「日本人が建ててくれた」と親しまれているものの一つに、「ナルニー・グール」(太陽橋)があります。
日本政府の無償資金協力により2012年に開通した高架橋で、モンゴル初の鋼鉄製橋梁でした。
出典:Нарны гүүрийг Нийслэлийн өмч болголоо
ナルニー・グールの開通によってチンギスハーン国際空港からウランバートル中心部へのアクセスが格段に良くなり、市内の交通の円滑化に寄与したといいます。
日本好きが集まるモンゴル日本センター
日本に興味のある人が必ずと言っていいほど訪れる場所が、モンゴル国立大学2号館の裏にある「モンゴル日本センター」(Монгол-Япон төв)です。
日本映画の上映会などのイベントや日本語教室が行われたり、日本留学に役立つ資料を見られたりといった、日本に関する情報が何でも集まる場所です。正式名称は「モンゴル日本人材開発センター」(Монгол-Японы Хүний Нөөцийн Хөгжлийн Төв)と言います。
1階に図書館と大ホールがあり、2階が研修室になっています。1階のロビーでは日本の新聞や雑誌も読むことができます。
これからの日本・モンゴル関係をますます発展させる人材が、ここから数多く出てくることでしょう。
そして、今後開港予定となっている新ウランバートル空港の建設にも、日本が多くの役割を担っています。開港がとても楽しみですね。
モンゴル人から見た日本人
悲しい歴史や敵対するような期間が長く続きましたが、今ではすっかり親日国となったモンゴル。
外交だけでなく、民間での観光や留学などの往来も当たり前になりました。
そこはかとなく感じる親近感は、顔が似ていて、かつ同じ蒙古斑を持つモンゴロイドであることも少なからず影響しているでしょう。
憧れの国、日本
日本へやってくるモンゴル人は、皆さん期待に胸を膨らませながら来てくれます。
一度日本に留学して帰国しても、「また日本へ行きたい」「日本が好き」と言ってくれるモンゴル人が数多くいるのは、本当にうれしいことです。
日本がモンゴル人の憧れの国となり、日本人と言えば嫌な顔をされることがほとんどないのも、かつてモンゴルの成長と両国関係の発展に資してきた日本人の先輩方の功績がとても大きいです。
こうした往来や交流を絶やすことなく、お互い支えあいながら、両国の友好関係がより一層深まっていくことを願うばかりです。