モンゴル帝国はなぜ残酷行為をしていたのか、そこには知られざる理由があった?

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モンゴル帝国は世界最強の遊牧民族であったと言われています。

中国は長い歴史の間、何度も遊牧民族による征服を受け、それに苦心していました。

しかし、どれだけ善戦していても、雪が深くなってくると撤退したり、他国と戦争中でも部族間で衝突したりと、まとまりの無い民族でした。

ところが、例外と言って良い国家が中世、モンゴル高原に存在しました。

皆様ご存知のモンゴル帝国です。

モンゴル帝国はそれまで、中華大陸を支配しきれなかった慣習を打ち破るだけに留まらず、世界の20パーセントもの面積を支配しました。

中世の全世界を震え上がらせたモンゴル帝国。その理由は彼らの残酷さにあるかもしれません。

本記事では、モンゴル帝国の残酷さや行われた虐殺について解説していきます。

地上最強のモンゴル帝国がなぜ成立したか

モンゴルが中世において、世界中を支配することができた要因は様々です。

まず、兵隊の練度が全然違いました。

騎兵と言うと、当時の中華や欧州においては特権階級のみが扱える兵科であり、平民からの徴収兵は徒歩が原則でした。

これは、身分の上下によってわけられていたとも言えますが、そもそも騎馬というのは非常に難しく、特権階級のように、騎馬訓練に時間がさけられた人間しかできなかったとも言えます。

しかし、モンゴル民族をはじめとする、遊牧民は違いました。

生活と戦闘、生活と騎馬というのが密接な関係になっているため、欧州や中華の騎兵に比べても並外れた練度を持っていたのです。

また、動員可能数にもその要因があります。

モンゴル高原は決して人口の多い地域ではありません。作物が育ちにくく、定住化が進まない地域では大勢の人間を養えるだけのカロリーが生産できなかったのです。

そのため、動員できた兵力も少ないのでは?と思われがちですが、そうではありません。

定住化の進んだ農耕民族国家では、全人口に対し、5パーセント以上の動員は難しいと考えられています。

農耕民族国家は戦争中でも国力を維持し、前線に補給できるだけの物資を生産しなければならなかったからです。

しかし、遊牧民族は違います。

彼らは移動することを則ち生活といているため、女子どもでも容赦なく根こそぎ動員することができました。

これらの理由が地上最強のモンゴル帝国を作ったと言えるでしょう。

テムジンの過酷な生い立ち

そんなモンゴル帝国が世界中を震え上がらせるほど残酷になったの理由は何なのでしょうか。

その理由はもしかすると、モンゴルを統一したテムジン(チンギス=ハン)の生い立ちや統一過程を見ていけばわかるかもしれません。

統一以前のモンゴル

テムジンがモンゴルを統一する前、モンゴル高原は正に群雄が割拠する修羅の時代でした。

部族間が互いに争い、領地を奪ったり奪われたり。彼らの間に国境はもちろんなく、部族間衝突が絶えない地域だったのです。

その戦闘の渦はもちろん、テムジンも巻き込まれることになりました。

テムジンの生まれ育ち

テムジンは、近隣で有名な戦士「エスゲイ」の息子としてその生を受けました。

父親が有力な戦士だっただけに、将来を期待されたテムジンでしたが、幼少の頃、父親が謀略をもって殺害されたのです。

部族はこれを機に、エスゲイの未亡人と当時9歳だったテムジンを含むエスゲイ一家を平原へ追放しました。

元々エスゲイは部族長の地位を脅かすほど有力になっていたので、部族長からすると好機だったのかもしれません。

そこからは、長く過酷な荒野での生活が続くことになりました。

しかし、同時に彼らを強靭に鍛えたのです。

テムジンはこの頃、大自然の厳しさと部族への恨みを以って、より無慈悲になっていったのかもしれません。

その後、親の旧友であるケレイト部族のトグリルと同盟を結び、再び有力者としての地位を築いていくことになります。

テムジンの受難は続く

しかし、テムジンはまだまだ困難に立ち向かわなければなりませんでした。

テムジンが有力者になっていく一方で、盟友であったジャムカと呼ばれる人物はそれを良く思いませんでした。

結局、両者は盟友の誓いを破棄して衝突。

最後はテムジンが勝利するのですが、その過程において、テムジンは部下70名をジャムカによって釜茹で(油や湯で人間を煮殺す処刑方法)に処されました。

モンゴルが行った大虐殺

このように、過酷な運命を巡ってきたテムジンだからこそ、モンゴル高原統一後はより一層残酷さが増したとも言えます。

抵抗する勢力には徹底した破壊活動を命じ、それが世界中で悪評を生むことになってしまったのです。

さて、ここからは実際にモンゴル帝国が行った大虐殺と戦いについてお話していきたいと思います。

ワールシュタットの戦い

モンゴル帝国を建国したチンギス=ハンの跡を継いだのが3男のオゴダイでした。

オゴダイはチンギス=ハンの征服思想を受け継ぐ形でロシアや東ヨーロッパへの野望を告示します。

甥のバトゥを征西の大将とし、進撃を命じました。

この遠征軍には、土地を持たない王族もいたことから、この武功を以って土地を得たいという思いと重なり、士気が非常に高かったと言われています。

ロシアを打ち破ったモンゴル軍はついに東ヨーロッパのポーランドへ終結。

ポーランド・ドイツ連合軍と対峙します。

しかし、結果は圧倒的でした。

射程の長い弓で前線を切り開き、ほぼ無傷で重騎兵を切り込ませます。ここからはほとんど虐殺に近かったと伝わります。

総大将であったヘンリク2世を討たれ、部隊は包囲されます。

モンゴル帝国軍はその包囲の環を少しずつ縮めていく形で蹂躙。結局、生き残りはほとんどいませんでした。

その後、モンゴル帝国軍はヘンリク2世の首を槍に突き刺して進軍。これは他ヨーロッパ諸国の士気を下げるのに役立ちました。

ちなみにワールシュタットとは、ドイツ語で「死体の山」という意味であり、この戦いの残酷さがわかるのではないでしょうか。

バグダートの戦い

モンゴル帝国軍の残酷さを語る上で、バグダートの戦いは外せないでしょう。

バグダートは現在のイラクに位置しており、当時はアッバース朝が支配していました。

当時、アッバース朝のバグダートには100万人を超える居住者と6万人の軍隊がいたと知られています。

しかし、1200年代半ばになるとその力はどんどん衰えていきます。

その時期に現れたのはチンギス=ハンの孫モンケ=ハン率いるモンゴル帝国だったのです。

モンケは弟のフレグを先鋒として、アッバース朝を攻めました。

怒涛の快進撃の末、1257年11月にバグダートの包囲が完了。その時、アッバース朝皇帝であったムスタアスィムは降伏を拒否。

ここに、バグダートの滅亡が決定づけられました。

軍備を怠っていたこともあり、バグダートはすぐにモンゴル軍によって奪われたのです。

その結果、1週間にわたって市井を含めた住民がモンゴル帝国軍の虐殺と略奪を受け続けることになりました。

当時のイスラム教国家を伝える書物は全て燃え、優雅を誇った都市はたった1週間で滅亡してしまったのです。

皇帝のムスタアスィムはフレグに捕らえられ、敷物にまかれた上に軍馬に踏み殺されました。

これは、モンゴル伝統の「貴人の死」と呼ばれる処刑方法でした。

インダス河畔の戦い

インダス河畔の戦いは1221年に現在のパキスタンで行われた戦いです。

戦いが行われる前、モンゴル帝国はホラズム帝国を攻めていました。各地でホラズム帝国軍を討ち破り、追い込んでいた途中に起きた戦です。

ホラズム帝国スルタン、ジャラールッディーンは兵士と数千人の避難民と一緒にインドに逃げている真っ最中でした。

猛追するモンゴル帝国軍に追いつかれてしまい、避難民を助けるために迎撃を開始。

しかし、すぐにモンゴル帝国に蹂躙されてしまいます。避難民もことごとく虐殺されました。

結果、インダス川を渡って生き残ることができたのは、極わずかな避難民だけでした。

2019年、ロシアでモンゴル大虐殺の跡が見つかった?

モンゴル帝国虐殺は紹介できないほど各地で行われていました。

現在でも、虐殺があった、なかったという議論は分かれますが、最近になって、ロシアのヤラスロヴリにおいて、虐殺を示す遺構が見つかったのです。

共同墓地に打ち捨てられた多数の白骨死体

見つかったのは、白骨死体でした。

炭素分析の結果、モンゴル帝国がロシアに攻め入った時期にマッチします。

残念ながら、身元自体はわかっておらず、それが平民の骨なのか、貴族の骨だったのかはわかりません。

しかし、白骨死体は女性・子どもも含まれており、全てを合わせると300体以上の遺体が葬られていました。

ヤラスロヴリで何が起きたのか?

元々、ヤラスロヴリではモンゴルによる虐殺があったかどうかについては議論の分かれるところでした。

しかし、この遺構と遺体の発掘によって、モンゴル帝国軍による略奪と虐殺が確実視されるようになったのです。

比較的裕福な家庭を狙ったというのは遺体の歯からもわかっています。

歯には虫歯がかなり進行していたため、日常的に佐藤やハチミツといったような高級品を食べていたということがわかっているからです。

モンゴル帝国は本当に残酷だったのか?

ここまでで紹介できたのは、ごく一部の虐殺例に過ぎません。

調べてみると、まだまだモンゴルの虐殺事例はあります。

しかし、本当にモンゴル帝国は残酷であったのでしょうか。

チンギス=ハンが残した言葉

チンギス=ハンが残した有名な言葉をご紹介します。

チンギス=ハンは晩年に将軍たちを集めて宴会を開きました。酔いが回ってきたころ、チンギス=ハンは将軍たちに尋ねます。

「人生最大の幸せは何だと思う。」

将軍たちは生粋の遊牧民族であったため、「草原で家族に囲まれながらのんびりと暮らすことだ。」と口々に言いました。

しかし、チンギス=ハンはこう言います。

「人生最大の幸福は敵を撃破し、駿馬を奪い、美しい妻や娘をわが物とし、その悲しむ顔を見ることだ。」と言うのです。

これは、モンゴル軍の残酷さを決定づけた言葉だったのでしょう。

言葉の裏側は・・・?

しかし、その言葉をそのまま受け取ってはダメです。

そもそも、略奪や虐殺というのは兵站の概念が薄かった中世においては常々行われてきたことです。

そして、チンギス=ハンの言葉はまだ遊牧民族のままボケている将軍たちを一喝したとも捉えられます。

逆に、自分達が敗北してしまうと、そういう目に合ってしまうということを暗に示唆したのかもしれません。

虐殺が行われなかった地域もあった

モンゴル帝国は逆らう地域や国に対しては徹底的に虐殺を行いましたが、早い段階で降伏した国には格別の慈悲があったそうです。

この事実から、徹底的に残酷さに振り切っていたのはある意味対外的に「従わないとこうなるぞ。」というアピールをしていたのかもしれません。

また、降伏した国の貴族や民族、宗教をしっかりと重んじる方向にあったらしく、あれだけ徹底して虐殺を行ったイスラム教でさえ保護の対象であったほどなのです。

パクスモンゴリカによる花開いた文明

モンゴルの世界征服によって、良い影響も少なからずありました。

それが交易の自由化です。

それまで、ユーラシア大陸は小競り合いが頻発しており、とてもではありませんが商人が陸路で行き来するのは危険でした。

しかし、ヨーロッパから東アジアまでを結ぶ大国が成立したことにより、シルクロードの安全性が確保されたのです。

これによって、帝国領土内の様々な人種が自由に行き交う時代が到来しました。

パクスモンゴリカはわずか百年ほどで瓦解することになりましたが、その影響は大きく、モンゴル帝国の庇護の元、諸地域では経済活動の発展が促されたのです。

まとめ

モンゴルより残酷だった日本の鎌倉武士

いかがでしたでしょうか。

モンゴル帝国の残酷さを歴史的事実と共に紹介していきましたが、モンゴル帝国が日本を攻めた「元寇」ではどのような残虐行為が行われたのでしょうか。

元寇はそれまで、日本側が苦戦の末退けたという認識が強かったですが、昨今の研究ではいい勝負であったという説が広まっています。

事実、元朝側の資料では、このような記述があります。

・やつらは自分で自分の国の町を焼き払う。(焦土作戦)

・やつらは船の中に糞尿を打ち込んでくる。

・捕虜を盾にして進撃しても、捕虜ごと弓矢を撃ってくる。

・武士の弓矢はモンゴルの弓矢より長大な射程があり、威力もすさまじい。

モンゴル帝国が残酷であったのはわかりましたが、もしかすると、当時の日本はモンゴル軍を恐れさせるほど残虐だったのかもしれませんね。