モンゴルは漢字文化圏だった!?契丹文字とは何か

東京からおよそ3021kmの場所にある、広大な国モンゴル。

同じ東アジアの国で、アジア人種という共通はありますが、韓国や中国のような隣国というイメージはあまりありませんよね。

その理由は、モンゴルが文化的にも歴史的にも他の東アジア圏とは一線を画しているからです。

中華思想の考え方からすると、現在、モンゴルや満州にあたる地域は蛮族の住む場所とされており、中華的な文明が流入しにくかったのかもしれません。

しかし、実はモンゴルと漢字には非常に深い関係性があったということをご存知でしょうか。

本記事では、モンゴルと漢字の関係性、特に契丹文字を切り口にしてご紹介していきます。

現在使われているモンゴル文字の情報も併せてチェックしてみましょう。

そもそも、漢字文化圏とは

漢字とはそもそも、中国古代の黄河文明で発祥した文字であると言われています。

派生形は様々であり、世界で最も多い文字体系にあたるため、習得が難しい文字の一つです。

私達日本人からすると漢字は慣れ親しんできたものですが、他言語者からすると数が多く、読み方も様々である漢字を覚えるのは困難。

日本人や中国人でさえ、知らない漢字もあるのに、他言語者ならなおさらですよね。

現在も漢字を使っている国家

現在、漢字を使用している人の数はおよそ15億人程度と言われています。

これは、世界で50億人いるラテン文字使用者に次いで世界第二位の数です。

しかし、常に使用している国は日本と中国、台湾の地域に限られています。

中華圏移民の多いシンガポールやマレーシアでも使われている地域があるんだとか。

特に、中国においては煩雑な感じを簡略しようという動きも少なからずあり、現在では簡体字と呼ばれる漢字が主流になっています。

現在でも伝統的な字体を使用する地域は台湾や香港、マカオに限られているそうです。

現在は漢字の使用を制限している国家

韓国、北朝鮮、ベトナムはつい最近まで漢字を使用していた国家としてあげられます。

特に、韓国では現在でも漢字の復活論が持ち上がるほどです。

李氏朝鮮時代には、漢字を知っているか、ハングルだけを知っているかで知識人とそうでないものが分け隔てられていました。

その後は教育政策により、大衆にも広く漢字が親しまれるようになりましたが、1948年にはハングル専用法が施行。

1970年には漢字教育が完全に廃止され、現在では流暢に使用されている人はいません。

同じ朝鮮半島にある、北朝鮮では、漢字の使用が公式に廃止されましたが、1953年から漢字教育を実施しているため、漢字を読める人は少なくありません。

北朝鮮は中国との関係性も深いため、その影響も少なからずあるのでしょう。

しかし、あくまでも外国語としての取り扱いであり、国内の出版物や公文書での使用は皆無です。

モンゴルも漢字を使っている?

さて、漢字はつい最近まで、東アジアで広く使われていた言語だということがわかりました。

東アジアの一国であるモンゴルも同じように漢字が使われているのでしょうか。

答えは「No」です。外国語教育として、漢字を学んでいる大学はあるかもしれませんが、義務教育課程や受験科目として漢字はなく、当然ですが、使用している方もほとんどいません。

モンゴル帝国が中華大陸を支配した、元朝の時代でさえ、歴史書や公文書に至るまでモンゴル語表記でした。(ただし、写本は漢字で書かれている。)

しかし、モンゴルはその全域が中華帝国である「清」に支配されていた時代もありました。

その時代はモンゴルも漢字を使っていたかもしれませんね。

契丹

歴史上、モンゴルが能動的に漢字を使っていた事実がないのかと思えば、そうでもありません。

4世紀~14世紀にかけ、モンゴル地域を含む中央アジアと現在の中国北部にまで跨る大帝国を作った契丹の存在があります。

契丹の起源

契丹と現在のモンゴル人が同じルーツかと言われれば、議論の生まれるところであるかもしれません。

しかし、共通点として、中華文明が成立して以後、度々中国を脅かしてきた異民族であるということはわかっています。

一説には、中国北部に存在した遊牧騎馬民族である鮮卑の末裔が建国した国家であると言われています。

遼の建国へ

そんな契丹ですが、元々、アバウトな活動領域こそあったものの、国家というものが存在しませんでした。

ここら辺の感性は、モンゴル帝国と同じものを感じますね。

しかし、916年、中華大陸で絶対的であった唐の滅亡を契機に自らの国家を立て、遼と呼ばれる国を建国しました。

その後の契丹人は破竹の勢いで女真族や西夏、ウイグルや渤海を滅ぼし、一大帝国を築き上げました。

契丹文化と漢字圏文化の融合

契丹人は怒涛の速度で領土を広げ、その地にいる農耕民族も獲得するようになると、漢字圏文化との融合が起きるようになりました。

しかし、その是非に対して、騎馬民族として独自風習を守ろうとする派、中華化を推し進める派とで内部抗争が起きてしまい、それが契丹人の南下の足枷にもなりました。

結局は、農耕民族を従えるには、騎馬民族のやり方では不可能であり、遼と契丹人の中華化が進みました。

契丹文字って何?

Wikipediaより引用

契丹人と遼が中国文明を受け入れたことによってかどうかはわかりませんが、騎馬民族は自身の言語文字として、漢字に着目していきました。

こうして、モンゴル地域でも漢字が使用されるようになったのです。

契丹文字の起源

中国の歴史書である「遼史」によると、建国後、西暦920年、太祖耶律阿保機が契丹大字を創案したと言われています。

また、少し下って924年に耶律阿保機の弟である耶律迭剌がウイグル文字を参考にして契丹小字を製作しました。

これらの文字は遼が滅ぶまで、遼の公用語として使われることになったのです。

契丹大字と契丹小字

そんな契丹文字ですが、大きく分けて契丹大字と契丹小字の2種類に分けられています。

大字の方も前述の通り、遼建国とほとんど同時に作られたものであり、その作成についても隷書漢字の画数を増減させることによって作成されました。

対して、小字は大字とは違い、ウイグル文字を元にしているため、大字とはルーツがまったく違うのです。

小字の特徴は複数の字を複合した複合字であるという表記体系を持っています。

このように、契丹文字は非常に複雑であり、当時の人々でさえ、その習得は容易ではなかったでしょう。

しかし、この複雑な文字こそが、契丹人の文明の高さを意味しているのではないでしょうか。

契丹文字のその後

しかし、そんな契丹文字ですが、ある時代を境にピタリと使われなくなってしまうのです。

その理由は、遼の滅亡にありました。

遼は最初こそ、中華帝国である宋も手が出せないほどの軍事大国でしたが、平和な時代を貪ってしまったために弱体化。

結局、自分達が滅ぼしたはずの女真族国家「金」によって東アジア地域を追い出されてしまったのです。

契丹文字は女真族によってその使用を禁じられてしまいました。

しかし、そこでピタリと契丹文字の使用がなくなったわけではありません。

中央アジアに逃げた契丹人は西遼(カラキタイ)を建国します。その逃亡国家では、継続して契丹文字が使われていたといわれています。

そのカラキタイもチンギス=ハンによって侵略され滅亡。

しかし、その頃に至っても、契丹人は漢字が流暢であったと伝えられており、モンゴル帝国によって、漢人とモンゴル人の通訳業務を行うこととなりました。

契丹文字の解読

実は、現在、契丹文字の解読はほとんどされていません。

漢文との言語対象資料があるにも関わらず、世界的にもかなり稀な例の未解読文字になりました。

未解読となてしまった理由は様々です。

死語となり、遠い年月が経っていること、音韻構造がかなり複雑であることがあげられます。

しかし、一番の理由はその資料の少なさにあるでしょう。

出土している有効な資料のほとんどが墓誌などの石刻資料だからです。中国や日本のように、紙媒体でまとまって手に入る資料はありません。

現時点においても、契丹小字は全体の6割、契丹大字についてはたった188字しか解明されていません。

これまで、契丹人の歴史はほとんど中国の偏った目線から編纂された「遼書」しかなく、多くの錯誤や作為があることが考えられています。

契丹文字の解読が進むことによって、遼の国の独自文書が読めるようになり、東アジア~中央アジアにかけての歴史が一変するかもしれません。

契丹文字とモンゴル文字の関係性

解読がまったく進んでおらず、謎に満ちている契丹文字ですが、現代のモンゴル文字との関係性はあるのでしょうか。

契丹文字とモンゴル文字は文字の形からして、まったく似ても似つきません。

契丹不語の系統的親縁関係を見てみると、モンゴル文字とのつながりがわかるかもしれません。

契丹文字の派生

契丹文字は外交書簡や中国語書物の翻訳など、幅広い範囲で使用されていたということが予想されています。

そのため、契丹文字自体は滅亡したとは言え、その親戚となる言語はたくさんあると考えられています。

大きな例をあげると女真文字があげられます。

女真文字は契丹文字由来と思われる文字が散見されており、繋がりが確実視されているそうです。

しかし、その女真文字も400年近く使用されておらず、契丹文字ほどではないにしろ、謎の深い言語になってしまいました。

契丹文字とモンゴル文字の共通点

現在、解読された契丹文字の意味と音節を調べてみると、基本的な動詞や十二支といった固有名詞にモンゴル語と類似した語が散見されるのがわかっています。

これだけで、契丹文字から派生して生まれたのがモンゴル文字であるとは言い難いですが、少なくとも、契丹文字使用者とモンゴル文字使用者とでは、何らかの接点があったと考えられます。

現在のモンゴルの言語

その昔、モンゴルでも漢字が使われていることがわかったのではないかと思います。

遼が滅亡してから数百年後、新しく中華大陸には清という国が建国されました。モンゴルもその支配下となり、一時的にモンゴルも漢字文化圏に組み込まれることとなりました。

漢字とは浅からぬ関係性がありますが、現代、モンゴルではどのような文字が使用されているのでしょうか。

モンゴル文字が主に使われる

現在、モンゴルではモンゴル語を表記する、モンゴル文字が使われています。

モンゴル文字は漢字とは似ても似つきません。

しかし、書道が発展していること、縦書きであること等々、漢字文化圏独特の特徴も有しています。

また、現在モンゴルで使われているモンゴル文字が子音や母音の文字整備がより進んだ「現代モンゴル文字」であるのに対し、成立直後のモンゴル文字はより古典的であるという特徴も有します。

モンゴル文字成立前後のモンゴルはチベット仏教の影響を強く受けていたという事実もあり、モンゴル文字はウイグル語から派生しました。

キリル文字も使われる

モンゴルと言えばモンゴル帝国や侵略者というようなイメージが強い方も多いかと思いますが、歴史の上では、支配されていた時代も長いです。

近代には清に支配され、辛亥革命のどさくさ紛れに独立後は共産主義国家であるソビエト連邦の衛星国になっていました。

そのため、ソビエト連邦が崩壊するまでは、モンゴル文字よりもロシア語を表記する、キリル文字の方が度々使われていたようです。

その影響は現在でも続いており、横書きのできないモンゴル文字よりも、キリル文字の方が使い勝手が良いとさえ言われています。

まとめ

モンゴル文字の公用語化へ

前述のように、モンゴル文字はモンゴル国内でよく普及しているとは言い切れません。

実は、モンゴル文字は1942年に廃止され、1994年に復活する、半世紀もの長い間、モンゴル人と切り離されてしまっていました。

中国の支配下にあった内モンゴル自治区でのみ、この半世紀間はモンゴル文字が使用されていました。

現在、モンゴル政府は学校教育を通してモンゴル文字の普及が進められていますが、依然としてキリル文字を使うケースが多いです。

1992年に来日したモンゴル人力士、旭天鵬がモンゴル文字を読めなかったという話は少しだけ有名です。

モンゴルの公式HPを見ても、キリル文字が使われており、モンゴル文字表記はまったく見当たりません。

モンゴル人がモンゴル文字を取り戻すのは、まだまだ先の話であるのかもしれませんね。