現在も、ロシア連邦と中華人民共和国の間に位置するモンゴル国。
13世紀には、世界の1/4を支配した超大国、モンゴル帝国を築き上げました。
おそらく、モンゴル帝国という名称は皆様も歴史の授業では知っているでしょうが、なぜ、そんな超大国が歴史から消えたのか、理解している人は少ないかもしれません。
本記事では、モンゴル帝国がなぜ衰退したのか、簡単な成り立ちを含めてご紹介していきます。
モンゴル帝国の成り立ち
さて、まずはモンゴル帝国の成り立ちから見ていきましょう。
実は、モンゴル帝国の衰退は成り立ち方にも大きな要因があり、切っても切り離せません。
モンゴル帝国がどのように成立し、その成立の仕方がどのような問題を孕んでいたのかをご説明します。
征服と内紛
モンゴル帝国が現れたのは、現在のモンゴル国とほとんど同じ位置です。
水もなく、豊かな農地もない場所にも関わらず、ここから世界征服が始まりました。
元々、この地に現れる少数民族の侵略は中国王朝からしても、モンゴル帝国成立以前から悩みの種でした。
万里の長城は、モンゴル遊牧民から国土を守る要塞として機能していたという事実からも、いかに中国王朝から問題視されていたのかがわかるでしょう。
しかしながら、チンギス=ハンの登場以前は部族をまとめきれず、統合と分裂を繰り返していたのがモンゴルの実情でした。
だからモンゴル遊牧民は中国王朝の国境線を脅かしことすれ、完全に征服するとまではいかなかったのです。
そこに現れたのがテムジン、後のチンギス=ハンでした。
テムジンは類まれな統率力を発揮し、瞬く間にモンゴルの諸部族を統一。ついには、クリルタイと呼ばれる部族会議にて、皇帝を意味する「ハン」の称号をてに入れました。
ここにモンゴル帝国が成立したのです。
その後、南の大国「金」に大勝したことを弾みにし、西にある国々を占領。東アジア随一の軍事国家になっていきました。
緩やかな連合国家としての再編へ
チンギス=ハンの死後も、2代オゴデイ・3代グユク・4代モンケに至るまで征服は続いていき、5代クビライの時代に最大版図を築き上げるようになりました。
しかし、征服をして領土を広げている途中でさえ、モンゴル帝国は決して一枚岩ではありませんでした。
特に後継者争いが絶えず、グユクの時代に東西分裂の危機を迎え、そのグユクが僅か2年の在位で急死すると、更に皇帝位の争奪戦が盛んになります。
モンケが即位し、反対勢力を弾圧することにより、取り合えずの落着を見せますが、そのモンケの死後、又も皇位継承戦争による南北の分裂が起きます。
5代ハンのクビライが対抗勢力であるアリクブケを下し、モンゴル帝国は再編していきました。
クビライはこの皇位継承戦争の結果を受け、正式にクリルタイにてハン位を授かるわけですが、まだ混乱が収まったわけではありません。
どれだけ内紛すれば気が済むのだという話ですが、これほどまでにモンゴル帝国の皇位継承法というのは複雑だったのです。
モンケの死後40年に渡る混乱を乗り越えたモンゴル帝国はクビライ率いる大元ウルス(中国国土を治めた元朝)を盟主とし、緩やかな連合国家として再編されました。
モンゴル帝国衰退の要因
さて、ここまでモンゴルの成り立ちを説明してきましたが、こんなに内紛だらけだとすぐに滅亡しそうなものですよね。
実際には、このような内紛をしながら西へ南や東へ国土を広げていたというのだから驚きですよね。
しかし、モンゴル帝国は長い中国史を見ても、短命に終わった王朝の一つです。
なぜ、ここまで強大であったモンゴルが衰退し、滅亡したのでしょうか。
独特な皇位継承法
まず挙げられるのが、クリルタイによる独特な皇位継承法にあります。
先ほども紹介した通り、クリルタイはモンゴルの皇帝一族や王侯貴族で構成された、最高意思決定機関です。
このクリルタイでハン位を授からない限り、非合法ということになります。
ハンの選出は「モンゴルの共同体と国家を幸福へ導くと認められた者」となっており、結果として、ハンに選出された者はモンゴル帝国随一の権力を手に入れることになるのです。
しかし、この制度は一代限りのもの。つまり、ハンが死ぬと、その権力と権利が息子に移るというわけではないのです。
もちろん、次代ハンはその血統にある者が優先的に選出されるものの、長男が皇位継承第一番であるというような決まりがありません。
そのため、次男が継いだり、末子が継いだりと様々。果ては甥が継いだり、従兄弟が継いだりする可能性もあるのがモンゴル帝国なのです。
そのような皇位継承法であるため、チンギス=ハンの血統にあるのであれば、誰であれハンになれるのです。
この制度が混乱を招くのは火を見るよりも明らか。実際、モンゴル帝国はハンが死ぬ度に大小の皇位継承競争が起きています。
これが逆にハンという位を自ら貶めることにもなっていきました。
支配地域への興味
モンゴル帝国が衰退した次の理由に、支配地域への興味のなさが挙げられます。
モンゴル帝国の侵略と征服による、戦争そのものは非常に熾烈で残虐でした。しかし、その後の支配については非常に寛容であったことが知られています。
被支配地域における管理も現地民に任せていた地域も数ありました。
なぜ、ここまで放任されていたかと言うと、それはモンゴル帝国がどれほど大きくなっても、本質が遊牧民であるからでしょう。
大元ウルスのウルスは領土や国を指す言葉ではなく、領民を指す言葉であるという事実からも、その気風が伺えるのではないでしょうか。
彼らは固定の土地というものに執着を覚えなかったのです。
征服の過激さはあったものの、元々遊牧民族から成り立っているモンゴル帝国には広大な国土を支配できる人口はなく、実際に支配できるだけの能力がなかったと言えます。
各諸王国の現地化
モンゴル衰退の理由として、最後に挙げられるのは各諸王国の現地化でしょう。
モンゴル帝国の盟主である元王朝でさえ、チベット仏教に傾倒するだけではなく、漢化が進みました。
中でも、イル=ハン国は異民族文化を受け入れ、イスラーム化した王国として挙げられます。
イル=ハン国は現地の有力者を宰相に据え、イスラーム化を推し進めただけでなく、現地王もイスラム教に改宗してしまったのです。
このように、独自路線、中途半端な現地民差別を行う王国が多かったため、反乱の温床になりやすかったのも、モンゴル帝国の致命的な欠陥だったのでしょう。
モンゴル帝国の解体
上記で説明した通り、モンゴル帝国は成り立ちから滅亡になる要因をたくさん抱えていました。
ここからは、どのようにしてモンゴル帝国が衰退し、解体していったのかをご紹介していきます。
クビライ死後の大元ウルス
クビライの時代に最大版図を築いたモンゴル帝国ですが、クビライの死後、孫であるテムルがハン位を継ぎ、「パクスモンゴリカ」と呼ばれる大繁栄を築き上げました。
しかし、テムルが息子を残さずに没すると、再び皇位継承を巡って内乱が勃発。
テムルの甥にあたるカイシャン、アユルバルワダが皇位につき、一先ず安定を見せますが、アユルバルワダの死後に三度皇位継承内乱が再燃。
なんと、13年の間に7人の皇帝が入れ替わるという異常事態にまでなったのです。
疫病の発生と宗教反乱の勃発
その後も中央政局の混乱が続く中、14世紀の折は小氷期の本格化による農業の破綻、更にはペストのパンデミックがユーラシア規模で発生。
これに対し、権力闘争に明け暮れる中央政府は有効な施策を何も打てずにいました。
そんな中、旧南宋人の不満が続き、宗教門徒による反乱が次々に勃発。その中でも朱元璋が頭角を現すようになったのです。
朱元璋による明王朝の成立
朱元璋は瞬く間に反乱軍をまとめ上げ、明王朝を成立させました。
この時はまだ、華南に位置する新興勢力でしかなかったものの、彼の野望は元朝を中華から追い出し、新たな漢民族による中華統一王朝の誕生でした。
朱元璋は1368年、南京にて正式に皇帝に即位。
勢いそのままに大規模な北伐軍を編成し、元の都、大都に迫りました。
大元ウルスの北走
朱元璋による北抜軍が大都に向かっていることを知ったモンゴル国民は早々に中華本土の保持を諦め、都を放棄。北のモンゴル高原に逃げました。
その際、ハンであったトゴン=テムルも一定の反抗はしたものの、結局はモンゴル高原に撤退。
歴史家から見ても、モンゴルの撤退劇は非常に潔いというか、呆気ないものでした。領土に対する執着が少ないのは、やはり元が遊牧民であるからでしょうか。
実際、中国史の中でも、滅亡の前に皇帝や国家ごと避難し、別地域で再興した先例はありました。
しかし、これらの先例とは異なり、中国主要部を完全に放棄した例は元王朝以外にありません。
ここにモンゴル帝国の盟主であった大元ウルスは滅亡。それにより、モンゴル帝国も解体されました。
モンゴル帝国のその後
こうして元朝が滅亡。モンゴル帝国が解体されたわけですが、国家としてのモンゴル帝国はその後、何百年と続くこととなりました。
明王朝の中華統一以降、モンゴル帝国がどのような道を歩んだのか見ていきましょう。
北元の内紛と滅亡
モンゴル高原に敗走した北元は依然として君主を中心とした、強大な軍事力を有していました。
事実、本土からモンゴル勢力を追い出したとは言え、中国北方から西方にかけて、明王朝を取り囲むようにして勢力基盤があったのです。
十数年の間、明王朝はこの残存勢力に頭を抱えることになりますが、1378年、ついに明が満州を制圧しました。
更に1387年には明軍が大攻勢を仕掛け、北元側の将軍を捕らえます。
しかも、北元はここに至ってもまだ皇位継承に起因する内乱を辞めませんでした。
北元皇帝であったトグス・テムルはクビライとハン位を争って敗れたアリクブケの子孫であるイェスデルの手によって殺害されます。
ここに、北元が滅亡しました。
モンゴル帝国解体後も各国の征服活動に影響を及ぼした
モンゴル帝国が着々と弱体化していく中、ユーラシア大陸には2つの大国が成立していました。
1つ目が元を中国大陸から追い出した明帝国。もう1つがオスマン帝国を押し上げて拡大を続けていたティムール帝国です。
どうやら、この2ヶ国とも、第二のユーラシア大陸覇者の座を狙っていたらしく、積極的に他国への征服活動を行っていました。
明帝国は北元へたった14年の間に5度も遠征を行っており、ティムール帝国は北元の西半分を征服します。
たった1つの勢力がユーラシア大陸をほぼ統一間近まで成し得たということは、その後の各国の征服観にも大きく影響を与えたようです。
清代における、元の完全消滅
ところが、モンゴル帝国が終わったわけではありません。
その後もモンゴル帝国は明王朝の北側で勢力を保ち続けるようになります。しかし、この頃にはタタールという名で明王朝が呼ばれ、モンゴルという国号が戻るのは、清代まで下らなければなりません。
中国北側の遊牧民族国家としてあり続けたモンゴル帝国ですが、ついに1600年代、消滅を迎えることになります。
なんと、中国満州地域において、13世紀に自分達が滅ぼした女真族の国家、「金」が再興することになるのです。
金の建国者であるヌルハチはモンゴルに次々に攻め入り、ついにエジェイ=ハンの時代、モンゴル帝国は滅亡を迎えます。
チンギス=ハンから数えてなんと429年も続いたのです。
こう見ると長いように見えますが、実情は決して一枚岩ではなく、兄弟間や部族間における内乱と対立の歴史がモンゴル帝国の本質だったと言えるでしょう。
まとめ
末子相続は遊牧民族の基本
圧倒的な強さを誇ったモンゴル帝国でしたが、その衰退も早く、滅亡は非常に呆気ないものでした。
後世の私達からすると、複雑な皇位継承法を辞め、中華のような家父長制に移行すればよかったのにと思うでしょう。
しかし、当時のモンゴルがこの皇位継承法を重んじたのには、モンゴルと遊牧民の文化が非常に根強く結びついています。
実は、遊牧民は末子相続を基本としています。末子相続とは読んで字の通り、一番最後に生まれた子が親の財産を全て相続するということです。
未だに長男が家を継ぐ文化が根強い我々日本人からすると、理解しにくいですが、末子相続というのは遊牧民族ならではの方法なのです。
遊牧民社会では、子は成人すると、親から一定の家畜をもらって独立するというのが基本。つまり、親が死ぬ頃、家には末子しか残っていません。
財産が土地や金ではなく、馬や羊などの家畜で、財産分与がし易い遊牧民だからこその相続です。
ただし、これはあくまでも財産相続の話。家督の相続は実力によるところが大きく、まったくの別物でした。
この文化がモンゴル帝国という大国を築いた後にも重要視され、衰退に繋がったというわけです。
少し、まとめが長くなりましたが、モンゴルの歴史と現在のモンゴルの文化は密接に繋がっています。
この記事を読んでいただいた皆さんが、もし興味があれば、モンゴルの歴史について紐解いてみてはいかがでしょうか。
面白いモンゴルの事実が判明するかもしれませんね。