モンゴルにはどんな民族がいる?モンゴル民族の歴史と今を紹介

モンゴル民族というと、デールを着て笑う素朴な遊牧民を想像する人が多いのではないでしょうか?実際のところ、モンゴル民族は全て同じというわけではありません。モンゴル国内にはさまざまな部族が存在し、しきたりや歴史、言葉まで異なるのです。本記事ではモンゴルの民族グループについての詳細やモンゴル民族の歴史、さらには現在の内モンゴル・外モンゴルの民族問題について紹介します。

モンゴルには20以上の民族グループがある

「モンゴル民族」と一括りにされますが、モンゴルには20以上もの民族グループが存在します。ここからは、モンゴルの主な民族のうち8つの民族を紹介します。

1. ハルハ(Khalkh:Халх)

ハルハ族は、モンゴル帝国が誕生した「ケレン川」「オノン川」「トゥール川」周辺に住んでいたといわれる民族です。モンゴル国に占める人口比率は約8割と高く、彼らの話すハルハ方言が現在のモンゴル国公用語に採用されています。

モンゴルの歴史において、ハルハ族の果たしてきた役割は重要です。

まず世界に一大帝国を築いたチンギス・ハーン一族は、彼らの直系の祖先です。さらに20世紀に入ってモンゴルが中国から独立するときは、ハルハ族が中心となって新しいモンゴル皇帝を立て、独立を宣言しました。

ハルハ族の民族衣装

Khalkh

出典:Mongolia Tours

ハルハ族の民族衣装は、現在「モンゴルの民族衣装」として多くの人がイメージするものです。男性は高い円錐形の帽子や毛皮のイヤーマフの付いた帽子を被り、高い襟のついた長衣を着用します。

一方女性は肩が尖り手がすっぽりと隠れる長袖の長衣です。

既婚女性はヘアスタイルが独特で、5~6kgもある髪飾りを身に着けていました。世界的に人気の高いSFシリーズ「スターウォーズ」に登場する「クイーン・アミダラ」をご存知でしょうか?

彼女のスタイルの一つは、ハルハ族の貴族女性の衣装を参考にしていると言われます。

2. カザフ(Kazakh:Казах)

トルコ系のカザフ民族は、カザフ文化を継承する民族です。モンゴル国に占める彼らの割合は約3.9%で、ほとんどがモンゴル国最西部「バヤンウルギー州」に暮らしています。

この州ではモンゴル民族よりもカザフ民族の人口比率の方が高く、約9割がカザフ民族です。

彼らの祖先は、主に1700年代にカザフスタンからやって来た人々です。モンゴルが民主化した1991年代以降はカザフスタンへの移住が認められ、彼らの多くが帰国しました。これによりカザフ民族の人口は減少しましたが、2000年以降は再び増加中です。

現在モンゴル国に暮らすカザフ民族の人口は、およそ9万4,000人といわれます。

カザフ民族の民族衣装

Kazakh

出典:Mongolian Secret History

カザフ民族の衣装は、さまざまな中央アジア民族の影響を受けています。

もともとの衣装は野生動物や家畜の皮で作ったものが主流でしたが、やがてシルクやベルベットなどを使った豪華な衣装が登場。19世紀頃までにはロシア、タタール民族などの影響を受け、綿の衣装を着用するようになりました。

カザフ族の男性の伝統的な衣装は、黒に刺繍が施してあるものが主流です。一方女性はフリルが付いたフワフワのスカートに、色鮮やかなベストを合わせます。

また、真珠と羽で装飾された背の高い帽子を被るのも、カザフ族の女性の定番スタイルです。

3. トルグート(Torghut:Торгууд)

トルグートは、人口約1万5,000人の少数民族グループ。ほとんどはモンゴル国西部・ホブド県のブルガン市に暮らしています。

彼らの祖先は、勇猛果敢なことで知られたモンゴル帝国の戦士部族です。

14世紀、モンゴル帝国の皇帝は屈強な戦士を選りすぐって集め、帝国の守護を任せました。彼らは「トルグート」と呼ばれて重用され、後に帝国の一大勢力となったのです。

トルグートの民族衣装

Torghut

出典:Mongolian Secret History

トルグートの民族衣装は、ほかの民族衣装とよく似ています。

まず男性の冬のデールは、黒い角と細い刺繡が付いた襟が特徴。防寒のため、ラムスキンの上着を着ることもあります。

また帽子は腰まで届く長い赤い帯が付いた「カルバン」と呼ばれるものか、ラムスキンの帽子を被るのが一般的です。

一方女性は「Tsegdeg」と呼ばれるノースリーブのアウタージャケットを着用します。内側に着用するデールは「lavshig」とよばれ、黒や緑のシルクで作られていることがほとんどです。

また、珊瑚や真珠の付いた丸い帽子は「Toortsog」と呼ばれ、裕福な家庭の女性ほど珊瑚やシルバーなど、たくさんの装飾を付けていました。

4. バヤド族(Bayad :Баяд)

バヤド族はモンゴル国で3番目に多い民族で、全体に占める割合は約1.7%です。名前には「金持ち」という意味があり、祖先は古代モンゴルにまで遡ると言われます。

彼らの祖先は、モンゴル帝国建国に大きな役割を果たしたと言われるオイラート族の一つ。15世紀初頭には「オイラート部族連合」の一つとして多大な力を持ちました。

現在、バヤド族はモンゴル西部のウラド州、ゴビ砂漠のドゥンドゴビ、内モンゴル自治区、ロシアなどに点在しています。

バヤド族の民族衣装

bayad

出典:Mongolian Secret History

バヤド族の男性は、主に白いデールを着用します。両側にはスリットが入っており、その上に付けられた「Ulzii」とよばれる模様が特徴です。

一方既婚のバヤド族の女性のデールは、白い襟が付いた赤やバーガンディカラーをしています。袖は張り出し、幅が広いのが特徴です。

女性も男性と同様に白い色が好まれるのですが、これは白が悪運から身を守ってくれると信じられているためです。なお、髪飾りは伝統的に銀の蝶と黒い房で飾られたものを身に着けます。

5. ブリヤート族(Buriad:Буриад)

人口約4万6,000人で、モンゴル国の人口の約1.3%を占めるのがブリヤート族です。

「北モンゴル人」などと呼ばれることもある彼らは、主にロシアとモンゴルの国境に沿った森林に住んでいます。ただし、ブリヤート民族の3/4はロシア国内の「ブリヤート自治共和国」に暮らしており、モンゴルに住むのはごく一部です。

彼らの祖先は、もともとバイカル湖の南側で狩猟などをして暮らしていました。しかし18世紀にバイカル湖がロシアの領土とされたため、一部のブリヤート族はモンゴルへの移住を余儀なくされたのです。

ブリヤート族の民族衣装

Buriad

出典:Dicover Mongolia

男性のデールは、3つのカラーのストライプが特徴です。3色には赤と黒を必ず入れる決まりがあり、この2色がブリヤート人の死や痛み、悲しみを表わしているといわれます。残る一つのカラーは、着用する人の年齢などによって変わるそうです。

また帽子は後ろよりも前が長く、外が寒いときに伸ばせるようになっています。このほかイヤーマフが付いたものや毛皮のものなどもあり、パターンは豊富です。

一方女性の民族衣装は、肘部分のカラフルさが特徴です。外側のデールにはスリットが入っており、さまざまなカット済みのシルクなどで作られています。

6. ダリガンガ族(Dariganga :Дариганга)

言語としてはハルハ族に近いと言われるのが、ダリガンガ族。人口は約2万8,000人で、モンゴル国の人口に占める割合は約1%ほどです。彼らの多くはスフバートル州の南部、ゴビ砂漠近くの火山高原に暮らしています。

ダリガンガ族はもともと、清朝統治時代に最高の名馬を世話するために選ばれた部族です。このときガンガ湖近くのダリカリンへ移動させられたため、「ダリガンガ」と呼ばれるようになりました。

現在も、ダリガンガ族は駿馬と美しい銀細工で広く知られています。

ダリガンガ族の民族衣装

dariganga

出典:Mongolian Secret History

ダリガンガ族の民族衣装は、ハルハ族のそれとよく似ています。女性用のデールは上質なシルクでできており、袖部分が大きく広がっているのが特徴です。装飾品には珊瑚や銀が多様され、頭の両側からは美しい銀の鎖を長く垂らします。

7. ザクチン族(Zakhchin :Захчин)

人口約3万3,000人といわれるザクチン族は、主にモンゴル西部のコブド県に暮らす民族です。もともとはモンゴル南東の国境付近に暮らしていましたが、満州族の攻撃に遭い現在の地に逃れたと言われています。

彼らのルーツは、オイラート族を守るために編成された戦士団です。編成されたのは17世紀前半で、2,000人を擁する大部族だったと言います。

ところが部族が編成されてまもなく、彼らは満州族による大規模な攻撃を受けました。これによりリーダーや多くの仲間が討たれ、現在の地への移動を余儀なくされたのです。

ザクチン族の人々は、芸術的な才能に優れていることで知られます。中でもダンスは有名で、何百年も続くモンゴルの遊牧生活の伝統、歴史、日常を今に伝えているのだそうです。

ザクチン族の民族衣装

Zakhchin

出典:Mongolian Secret History

ザクチン族の民族衣装は、西モンゴルの部族と同様に内側に白いデールを着用するのが一般的です。帽子は男性・女性の区別がなく、赤・黒・黄色の3色が使われています。

8. ウリアンカイ族(Uriankhai :Урианхай)

主にゴビアルタイ、ホブド、ヘンティー、セレンゲ、バヤンウルギーの各州に散らばって暮らしているのが、人口約2万7,000人のウリアンカイ族です。

彼らはもともとモンゴル北部と西部の森林地帯で狩猟をしながら暮らしていた民族ですが、モンゴル帝国時代に5個大隊の兵士に分けられました。そしてその一部がモンゴル王室の警護を担当したと言われています。

モンゴル帝国の滅亡後、彼らは全国にちりぢりとなりました。ほとんどはオイラート族やハルハ族に吸収され、内モンゴル自治区に行ったグループもいるといわれます。

ウリアンカイ族の民族衣装

Uriankhai

出典:explore Altai

ウリアンカイ族の男性用のデールは、白色が基本です。縁は黒色で縁取るのが一般的で、冬になるとフラップ部分の内側にラムスキンを装着します。

女性用のデールは茶色、紫、青のシルクで作られ、襟の部分のみ白色です。帽子はイヤーマフが付いており、寒暖にあわせて下ろしたり挙げたりできるようになっています。

モンゴル民族の歴史

mongolia ethnicity

出典:Mike Norton

モンゴル高原では、古くからさまざまな部族が支配権を争ってきました。モンゴルの歴史を「民族」の観点から見ていきましょう。

もともとは「モンゴル部」

現在歴史で「モンゴル民族」というときは、モンゴル高原を中心に活動したアルタイ語系の遊牧騎馬民族を指します。

とはいえ、その時代に「モンゴル民族」という概念が存在していたわけではありません。モンゴル高原には、伝統や習慣の異なる数多くの部族が存在していました。今で言うモンゴル民族は「モンゴル部」という一部族に過ぎなかったのです。

モンゴル高原では、3~5世紀にはトルコ系の「鮮卑(せんぴ)、「柔然(じゅうぜん)」、10世紀頃には遼をうち立てた「契丹(きったん)」などが勢力を握りました。「モンゴル帝国」という一大帝国を築き上げるモンゴル部が表舞台に出てきたのは、13世紀に入ってからです。

チンギス・ハーンが登場しモンゴル帝国(元)が誕生

1206年、テムジンは遊牧騎馬民族の部族会議「クリルタイ」で、全部族を統べる「カーン」に選出されました。チンギス・ハーンと名を変えた彼は、「モンゴル帝国」を樹立して世界征服に乗り出します。

モンゴル帝国の誕生以降、モンゴル高原に住む遊牧騎馬民族は、トルコ系やモンゴル系も全てまとめて「モンゴル民族」に括られるようになりました。

ただし、この時代のモンゴル民族はただの「連合体」に過ぎないと言われます。「民族」とはいうものの決して一枚岩だったわけではなく、多種多様な部族がそれぞれの特性を維持したまま「国」を形成していたのです。

明時代はオイラートとタタールが隆盛

モンゴル帝国(元)は漢民族の王朝「明」に滅ぼされ、モンゴル高原では「タタール部」「オイラート部」が勢力を握るようになります。歴代の明の皇帝はたびたび北方部族の討伐を試みますが、いずれも成功していません。15世紀にはオイラート族が明の皇帝を人質に取るという事件まで発生しました。

16世紀に入りオイラート族が衰えた後は、タタール部がモンゴル高原を掌握します。しかしこの頃、ツングース系の女真族もモンゴル高原の東方ので力を付けていました。

彼らは1644年には明を滅ぼし、「清」という征服王朝を樹立。これ以降、清の皇帝が積極的にモンゴル攻略に乗り出すようになります。

清朝時代は臣民として臣従

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出典:Wikiwand

1757年、モンゴル高原全域は清朝の支配下に下ります。これによりモンゴル民族は清朝の「八旗」という軍制に組み込まれ、清の軍事力の一端を担うこととなりました。

清朝の支配方法は直接支配ではなく各エリアに首を置く方法で、部族の伝統や慣習はそのまま認められました。そのためモンゴル民族は文化が断たれたり中国化したりすることはなく、独自の文化を維持し続けることができたのです。

清朝滅亡後

1911年の辛亥革命により清王朝が滅びると、かつて清王朝が所有していた領地の主権について、中国の共和政権と北モンゴルの民族政権が対立します。

「清王朝の旧領はすべて新しい中国政権に主権がある」とする共和政権に対し、北モンゴル(現在のモンゴル国)は独立を主張。ロシアの後ろ盾によって主張は認められ、1915年に独立を果たすこととなりました。

1917年のロシア革命によって再び中国の干渉を受けそうになるものの、北モンゴル政権はソビエトに支援を依頼してこれを回避します。

結果、モンゴルはソビエトの影響下に入ることを余儀なくされ、1921年には世界で2番目の社会主義国家「モンゴル人民共和国」が誕生しました。

これ以降現在まで、モンゴルではモンゴル民族主体の国家体制が続いています。

モンゴルの民族問題:内モンゴル自治区と外モンゴル

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中国領内の内モンゴル自治区を「内モンゴル」、モンゴル国を「外モンゴル」と呼びます。同じ民族が暮らしていながら、なぜ国が別れてしまうこととなったのでしょうか。内モンゴル自治区と外モンゴル問題の概要や、現在懸念されている民族問題について見ていきましょう。

モンゴルが分裂した経緯

内モンゴルも外モンゴルも、もともとは清王朝の支配下に置かれていました。

しかし20世紀に入ってロシア帝国の南下が懸念されるようになると、清王朝は現在の内モンゴルエリアに漢民族を入植する政策を開始。人口密度を高くすることで、ロシアの南下をけん制しようとしたのです。結果、内モンゴル自治区では漢人の比率がモンゴル民族を圧倒するようになりました。

1911年に辛亥革命で清王朝が滅ぶと、外モンゴルはソビエトの仲介により独立が承認されます。しかし内モンゴルは、中国領のまま残ることとなりました。

これにはいくつか原因があるのですが、主に次の2点がキーポイントと言われます。

  • 内モンゴルにはすでに多くの漢人が入植しており、中国政府が強く独立承認を拒否した
  • 内モンゴルと外モンゴルの連携がうまくとれていなかった

これ以降外モンゴル・内モンゴルは同じ民族ながら袂を分かつこととなり、現在に至ります。

中国政府による漢化政策

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出典:ifex

現在内モンゴル自治区で懸念されているのが、中国政府によるモンゴル民族の漢化政策です。

これまで内モンゴルでは、モンゴル語教育が自由に行われていました。中国政府は、少数民族が歴史や文化を保持することを法律で認めていたためです。

しかし2020年より内モンゴル自治区の小中学校ではモンゴル語の授業が減らされ、漢語の授業が増やされています。これにより内モンゴル自治区のモンゴル民族たちは、「モンゴル語の話者がいなくなってしまうのでは」と危機感を抱くようになりました。

また、モンゴル民族の中には「これだけでは済まないのでは」と考える人も少なくありません。

現在人権問題として注目されている「新疆ウイグル自治区」では、2017年にすでに同様の教育が始まっていたといわれます。今後内モンゴル自治区でも新疆ウイグル自治区のような、民族弾圧が展開される可能性はゼロではありません。

モンゴル国の中国への対応

現在モンゴル国は、中国なしでは経済が立ち行かない状態です。中国を刺激することはなるべく避けたく、同じ民族が暮らす内モンゴル自治区について言及することはありません。

モンゴル国政府は「他国の内政に干渉しない」旨をすでに表明しており、内モンゴル自治区の漢化政策を「中国国内の問題」としています。

多様なモンゴル民族に目を向けてみよう

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モンゴル民族について興味のある方は、各地方に散らばる少数部族に目を向けるとさまざまな発見があります

例えばトルコ系のカザフ民族は、宗教からしきたり・言葉までほかの部族とは異なり、非常に異質です。モンゴルで大多数を占めるハルハ族などと比較してみると、同じ国に暮らす民族でも、大きな違いがあると分かります。

また、モンゴル民族の問題としては、内モンゴル自治区の今後も気になります。内モンゴルで美しいモンゴル民族の言葉や歴史が失われてしまわないよう、国際社会はもっと目を向けるべきなのかもしれません。