モンゴルの歴史は戦いの歴史?匈奴の時代から元寇、現代までを紹介!

モンゴルは日本のおよそ4倍もの国土を有する、東アジアの内陸国家。国土のほとんどは草原で、さまざまな騎馬民族たちが国を興しては消えていきました。

モンゴルについて興味のある人は、その歴史を知ると現在のモンゴルをより理解しやすくなるかもしれません。

本記事では、モンゴル高原地帯の歴史を紀元前の時代から現代まで紹介します。最後には日本との係わりについても触れますので、併せて確認してみてくださいね。

【モンゴル高原の歴史】紀元前4世紀~1世紀頃

モンゴル高原では、紀元前より家畜を放牧して生計を立てる遊牧民が暮らしていたといわれます。

もともと彼らは部族単位でまとまって、一つの集団を形成していました。大きな部族もさまざまあったといわれますが、モンゴル高原最初の覇者として認知されているのは「匈奴(きょうど)」です。ここでは、匈奴の歴史を中心に紹介します。

匈奴帝国

匈奴を初めとする騎馬民族は、もともとは平和的な「遊牧民族」でした。しかしスキタイから騎馬技術が伝えられると、勇猛果敢な騎馬民族として存在感を強めるようになります。紀元前のモンゴル高原では、匈奴、サルマタイ、月氏、烏孫などといった有力な部族が勢力をふるっていました。

このうち、モンゴル高原を掌握したのが匈奴です。

紀元前3世紀末ごろ、匈奴は強力な支配者のもとさまざまな部族を統一し、大きな集団を形成しました。そしてその勢力をさらに拡大しようと中国の領土にも侵入を始め、たびたび中国と衝突を繰り返しています。

騎馬民族の圧倒的な戦闘能力に、農耕民族である中国軍は手を焼いたようです。秦の始皇帝は匈奴を完全に服従させることを諦め、匈奴の南下を防ぐことに注力します。現在世界遺産として広く知られる「万里の長城」は、「対匈奴」の防衛策として作られたものです。

この後匈奴は一時衰退しますが、「冒頓単于(ぼくとつぜんう)」の下で強力な「匈奴帝国」を樹立します。紀元前200年には漢の皇帝を屈服させ、漢と対等な外交関係を結ぶようになりました。

東匈奴・西匈奴

出典:匈奴有没有融入汉族,成为现代汉族祖先?DNA检测重磅揭秘|匈奴人|刘渊|冉永曾_网易订阅

しばらくは中国・漢と対等な関係にあった匈奴ですが、「武帝(前漢)」の登場とともに状況が変化します。武帝はこれまでの融和路線を止め、匈奴を駆逐すると決めました。たびたび高原地帯に兵を送り、漢はついに西域を手中に収めます。

武帝によって圧迫された匈奴は、徐々に勢力が衰えていきました。加えて紀元前60年頃には虚閭権渠(きょりょけんきょ)単于が死去し、内部紛争が勃発。匈奴は勢力を二分して争うようになり、東と西に分裂してしまいます。

このうち、漢に服従したのが「東匈奴」、しなかったのが「西匈奴」です。東匈奴は現在の内モンゴル地域で漢軍と協働し、西匈奴を追い詰めます。そして紀元前36年、西匈奴は滅亡したのです。

匈奴の南北分裂

前漢時代は蜜月の関係にあった匈奴と漢ですが、前漢が倒れて「新」王朝が立つと、その関係には亀裂が入ります。

前漢の時代、匈奴の首領は「単于」として王よりも上位の待遇を受けていました。しかし新王朝を興した「王莽(おうもう)」はこれを廃止し、匈奴の扱いを格下げしてしまいます。

結果、匈奴はこれに激しく反発。不可侵とされていた西域諸国にも兵を出し、新の領土を荒らします。

この対立は長らく続き、新を倒した「後漢」の「光武帝」が和平を申しでても、匈奴は応じませんでした。

後漢と匈奴との戦争は避けられないと見られましたが、匈奴内で再び「単于」の位を巡る内部紛争が起ります。匈奴は北と南に分裂し、このうちの南匈奴が後漢と手を結び、庇護を受けることとなりました。

匈奴帝国の崩壊

モンゴル高原には、北匈奴が残りました。しかし後漢と手を組んだ南匈奴はこれを放置せず、北匈奴を討つべく後漢と協働して兵を送ります。

さらにはモンゴル高原に在中していた「烏桓(うがん)」「鮮卑(せんぴ)」などの部族も、北匈奴討伐に参加。ついに91年、北匈奴は本拠地を奪われ、匈奴帝国は崩壊してしまいます。

ちなみに、北匈奴の一部はヨーロッパ方面に西進したという説もあります。ゲルマン民族の大移動を引き起こした「フン族」は、彼らではないかと言われているのです。

【モンゴル高原の歴史】1世紀頃~12世紀頃

後漢が滅ぶと中国は分裂し、華北にはたくさんの国が乱立します。これがいわゆる「五胡十六国時代」で、さまざまな騎馬民族国家が誕生しました。

ここからは元が登場する前のモンゴル高原の様子を紹介します。

鮮卑(せんぴ)

鮮卑はもともとモンゴル高原に在住していた騎馬民族で、匈奴に服従していました。しかし匈奴が滅んだ後に勢力を増し、2世紀半ばに現在の内モンゴル周辺を統治するようになります。

鮮卑は漢民族の文化を取り入れつつ強大化していきましたが、3世紀頃に分裂。前燕、後燕、南燕 、西秦 、南涼などの国が乱立します。

そして、鮮卑の最有力グループの一つ「拓跋(たくばつ)氏」が建国したのが「北魏(ほくぎ)」です。北魏は徐々に勢力を強め、第3代皇帝「太武帝」のときに華北を完全に掌握します。

これにより、五胡十六国時代は終わりを迎えることとなりました。

柔然(じゅうぜん)

鮮卑が華北に南下して北魏を打ち立てた後、モンゴル高原で勢力を伸ばしたのが柔然です。系統としては生粋のモンゴル系と言われており、首領の称号を「可汗(かがん)」としました。この呼び方は突厥(とっけつ)、ひいてはモンゴル帝国の「汗(ハン)」のもとになったと言われています。

柔然はモンゴル高原から西進し、東西の交易路を掌握。徐々に勢力を拡大していきました。

南で領地を接する北魏とはたびたび衝突を繰り返しますが、449年に北魏の太武帝と戦って大敗。柔然の勢力は一気に弱まってしまいます。6世紀に突厥の勢力が強まると、柔然は完全に滅ばされてしまいました。

突厥(とっけつ)【東突厥・西突厥】

出典:留园网-突厥入侵唐朝无人能敌,李世民出现就立刻撤离,难怪他能当上皇帝 -6park.com

もともとはアルタイ山脈西南地方を中心に活動していた、トルコ系の騎馬民族です。鉄器を作るのに長けていた上、「草原の道」の交易権も持っていました。月日を経るごとにその力は強大なものとなっていき、ついには柔然を滅ぼすに至りました。

さらに567年にはササン朝ペルシアと結んで、「エフタル」も殲滅。モンゴル高原からカスピ海にまで及ぶ大帝国を樹立しました。

また、当時の突厥は中国とも良好な関係にありましたが、3代目の可汗が没したのち内部紛争が勃発。中国に新たに興った「随(ずい)」からも激しく圧迫を受けるようになり、突厥はモンゴル高原を支配する「東突厥」、トルキスタン周辺を支配する「西突厥」に分かれてしまいます。

この後隋が衰退すると、東突厥は新たに興った「唐(とう)」と同盟を結び、共に隋を滅ぼします。このあと東突厥は唐を下に見るような態度をとり続けたため、両国の関係は険悪なものとなりました。

やがて、唐の皇帝が太宗(李世民)になると、彼は兵を集めて東突の征伐に乗り出します。そして太宗は東突厥を打ち破り、「天可汗」すなわち「世界皇帝」の称号を認めさせたのです。

唐の強大な勢力は西突厥にも向かい、657年には西突厥も滅ぼされてしまいました。

ウイグル(回鶻:かいこつ)

突厥が滅びた後、8世紀頃に登場したのがウイグルです。唐とは対立する姿勢を取っていましたが、755年に唐で勃発した「安史の乱」では皇帝を支援。9年にも及ぶ大乱を抑えるのに大きな役割を果たしたと言われています。

その後はソグド商人を保護するなどして東西交易の利を得ましたが、自然災害や内紛で国内は徐々に疲弊します。そして840年、キルギスの侵攻を受け、ウイグルは崩壊してしまいました。

このとき、多くのウイグル人がモンゴル高原を離れ、タリム盆地などに移住します。そしてそこでは大多数を占めていたイラン系民族を圧迫し、中央アジアのトルコ化をもたらしました。

遼(契丹)

10世紀から12世紀の間、モンゴル高原東部で活動した騎馬民族国家です。もともとは「契丹」という国号でしたが、後に中国風の「遼」に改めました。

936年に華北地方に侵入して後晋を滅ぼし、首都だった開封を占領。これにより一時中国全土を支配下に納めましたが、漢民族の抵抗にあい中国の支配権を放棄してしまいます。

その後はモンゴル高原東部と華北地方を納めるに留まっていましたが、1004年には当時の中国を治めていた「北宋」と対峙。有利なかたちで講和を進め、北宋とはおよそ1世紀以上も友好的な関係が続きました。

しかし、中国東北部で強固な軍事力を備えた女真族が台頭し、状況は変わります。女真族は「金」という国家を打ち立て、宋と手を結んで遼を倒そうとしたのです。

ついに1125年、遼は金と宋との連合軍により滅ぼされてしまいました。

【モンゴル高原の歴史】13世紀~14世紀

最盛期には全世界のおよそ1/4を支配したとも言われるのが「モンゴル帝国」です。

モンゴル高原の歴史を語る上で決して外せない大帝国はどのようなものだったのでしょうか。ここからはモンゴル帝国を中心とした歴史を紹介します。

モンゴル帝国の誕生

モンゴル帝国の祖は、かの有名な「チンギス・ハーン」です。幼少時「テムジン」と呼ばれた彼は若くして族長である父を失い、その跡を継承。たぐいまれな統率力を発揮し、徐々に一族で頭角を現していきます。

そして1206年、彼はモンゴルの最高の部族会議である「クリルタイ」にて、一族を統べる「ハーン」の称号を賜ることとなりました。

「チンギス・ハーン」と名を改めた彼は「千戸制」と呼ばれる部族制度を導入し、国家の中央集権体制の強化に努めます。そして強力な騎馬民族軍隊を作り上げ、金を攻めて華北地方の半分を占領しました。

その後はさらに西へと兵を進め、国土の拡大を図ります。

チンギス・ハーンの跡を継いだ第2代ハーン「オゴタイ・ハーン」は金を攻め滅ぼし、華北地方を完全に掌握。さらに軍隊を西進させて東ヨーロッパにまで進み、行く先々の街を支配下に組み込みました。

一方、西アジアに侵攻した一族はバグダードを占領します。アッバース朝ペルシアを滅ぼし、モンゴル帝国は西アジアも勢力下に置いたのです。

元による支配

その後13世紀後半になると「フビライ・ハーン」が第5代皇帝となり、都を現在の北京において「大都」とします。国号も中国風の「元」へと改められ、世界史上最大版図を誇る帝国となりました。

元の支配方法は、征服地を一族に分け与えて統治させるというものです。具体的には「チャガタイ」「キプチャク」「イル」ハン国が各エリアを支配し、元を盟主として仰ぎました。

大帝国を構成する国々はゆるく結ばれるだけだった上、モンゴルの文化を押しつけることもなかったと言います。支配地の住民も、元による支配を比較的受け入れられやすかったそうです。

例えば中国を支配した元では、漢民族もモンゴル部族も有能でさえあれば高い地位を得ることができたとか。元は非常に合理的な思考で人々を統治し、民族間の差別などを行いませんでした。

東西交易の活発化

元がアジアからヨーロッパまでを支配下に置いたことで、シルクロードや草原の道といった、東西を結ぶ交易ルートの安全が確保されるようになりました。

加えて、オゴタイ・ハーンの時代に確立された「駅伝制(ジャムチ)」も、東西交流発展を促すきっかけとなります。

駅伝制とは、主要な交易ルートに宿泊施設や駅などを配置する制度です。通行証を持っている人には食事や馬が提供され、文書を配達する郵便屋のような仕組みもありました。

このように東西を結ぶルートがしっかりと確保されたことで、東西の文化・商品・情報の流れはスムーズなものとなります。人や物が盛んに行き来できるようになり、東西文化それぞれに大きな影響を与えました。

そして東西の交易路の中心にあった「カラコルム」は、東西文化の集まる場所として華やかな発展を遂げていったのです。

元寇

出典:元寇:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中国や高麗(韓国)が元の支配を受けるなか、島国である日本はさほど影響を受けませんでした。海を隔てた小国を征服してもさほどメリットがないように見えますし、初めはハーンたちもそう考えていたのでしょう。

しかし、フビライ・ハーンは1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)の2度、日本への侵攻を試みています。いずれも失敗に終わっていますが、その理由として考えられるのは「南宋を完全に支配するため」です。

当時、南宋はまだ完全に元の支配下に落ちていませんでした。当時の日本は南宋と非常に良好な関係を築いていたため、元は南宋の通商国から攻めていこうと考えたのです。

兵を送るまえ、フビライは日本に対し、「元の支配下に下るように」と特使を送っています。しかし日本は無視を続け、最後には特使を切り捨ててしまいました。これがフビライの逆鱗に触れ、派兵へと至ったようです。

本当に神風が吹いたのか?

元寇では2度とも日本が勝利していますが、その勝因は「神風が吹いて、元軍を追い払ったため」などと言われます。

しかし実際のところ、1度目の「文永の役」では暴風についての記録は全く存在しません。2度目の「弘安の役」では台風が通過したようですが、それが直接の勝因となった訳ではないようです。

ちなみに、近年話題となった「Ghost of Tsushima」というゲームは、元寇をモチーフとしています。これにより海外でも「元寇」や「神風」に興味を持つ人が増えたそうです。

元の滅亡

1294年にフビライ・ハーンが亡くなると、帝国では後継争いによる内部紛争が激しくなります。自分に有利なハーンを推す勢力が争いを続け、ハーンが変わるごとに皇帝の力は弱体化していきました。

また、フビライはチベット仏教を手厚く保護し、多くの寺院を建立しました。この費用が国の経済を圧迫し、財政難を引き起こしたとも言われています。

悪化した経済情勢を立て直そうと、元では「交鈔(こうしょう)」という紙幣が濫発されました。しかしこれは悪手でしかなく、経済はますます混乱し、各地で反乱が起こるようになります。加えてこの時代には、この時代には黄河の氾濫・黒死病の流行などが続きました。元の支配力は急速に衰え、国内外で争いが頻発するようになったのです。

やがて1351年、民間宗教を信仰する「白蓮教徒の乱」から「紅巾の乱」が勃発・拡大します。この混乱に乗じて元を襲ったのは、1368年に興った「明(みん)」です。明軍は首都・大都へと上りつめ、ハーンたちを都から追い払ってしまいました。

また、元の滅亡と併せてキプチャク・ハン国やイル・ハン国・チャガタイ・ハン国も滅亡。騎馬民族による支配の時代は完全に幕を閉じることとなります。

【モンゴル高原の歴史】14世紀~20世紀

中国に元王朝を作ったモンゴルの部族は、再びモンゴル高原に戻ります。この後は中国を支配した「明王朝」「清王朝」と係わりを保ちながら草原を支配しました。

14世紀から20世紀のモンゴル高原について見ていきましょう。

明王朝による支配

元王朝最後の皇帝「順帝」は「ハーン」の称号を受け継いだままモンゴル高原に戻り、明を圧迫します。次の皇帝はカラコルムに拠点を移して明に抵抗しましたが、1388年に明の支配下に下ることとなりました。

その後はモンゴル高原で勢力を振るった「タタール部」や「オイラート部」が明に抵抗し、15世紀にはオイラート部が首都・北京に侵攻。皇帝を捕虜とするなど、明を打ち負かしています。

さらに16世紀にはタタール部が北京に攻め入るなどし、明王朝にとってモンゴル高原の部族たちは非常な脅威となりました。

清王朝の誕生・支配

17世紀に入ると、女真族が勢力を増し「後金」を建国します。後に国号を中国風の「清」と改め、1644年に明の首都・北京へ侵攻。これにより明は滅亡しました。

明の後を引き継いだ清王朝は、モンゴル、チベットと新疆を「藩部」として管轄下に置き、法支配を強めました。特に現在の内モンゴルといわれるエリアの部族は清朝との係わりが深く、重要な戦力として重宝されたといいます。一方で外モンゴルは、さほど干渉を受けませんでした。

ところが18世紀になると、清王朝は外モンゴルにも「盟旗制」と呼ばれる司法・行政機構を適用しました。長距離移動を禁止するなど厳しい管理体制が敷かれまいしたが、それと同時にモンゴル部族には過度な恩恵を与えたとも言われます。

清朝はいわば「アメとムチ」を使い分け、モンゴルを支配下に置こうとしたのです。

また、清王朝はモンゴルに入ってきた「チベット仏教」も手厚く保護しました。これによりモンゴル国内にチベット仏教が広く浸透し、信仰を通じて人々が強くつながるようになったといわれます。

【モンゴル高原の歴史】20世紀~現代

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長く続いた清王朝の支配も、20世紀に入ると終わりを告げました。これに伴い、モンゴルでも大きな動きが見られるようになります。20世紀から現在までのモンゴルの様子を見ていきましょう。

辛亥革命の勃発

ヨーロッパの国々が近代化していくなか、清王朝は旧態依然の政治体制を維持していました。近代化の波に完全に乗り遅れ、日清戦争では日本にも敗北してしまいます。

列強諸国による中国分断が進むなか、「義和団事件」により列強諸国に敗北。満州民族の支配に不満を持つ漢民族の怒りが爆発し、ついに1911年に辛亥革命が起ります。

1912年には最後の皇帝が退位させられ、「中華民国」が成立。清王朝の支配下にあったモンゴルでも独立運動が活発化し、チベット仏教の高僧をトップとする国家の樹立が宣言されました。

そして1915年、外モンゴルは自治権が認められることとなります。一方で内モンゴルについては、中国領に編入されたままでした。

モンゴル人民共和国の誕生

モンゴル 街

1921年、モンゴル人民党(後にモンゴル人民革命党と改称)はロシア革命を成功させたロシア赤軍の援助を受け、外モンゴル人民臨時政府を樹立します。

その後1924年、世界で2番目の社会主義国家「モンゴル人民共和国」が誕生したのです。このとき首都は「ウランバートル」、モンゴル語で「赤い英雄」へと改められました。

社会主義時代のモンゴル

社会主義時代のモンゴルは、ロシアの影響下にありました。

経済活動や言論の自由はなく、1937~39年には反乱分子の徹底した弾圧が行われました。このとき国家反逆罪に問われた人は2万5,000人以上にも上り、およそ2万人が処刑されたといわれています。

またこの時代は、モンゴルの英雄であるチンギス・ハーンを賞賛することも許されませんでした。これは、13~15世紀にかけてロシアが「キプチャク・ハン国」の支配下に置かれていたことに起因します。

この時代は「タタールのくびき」などと呼ばれ、ロシアにとっては屈辱の時代です。モンゴルではチンギス・ハーンを讃えることはもちろん、名前を出すこともはばかられました。

またロシア語が第一外国語とされ、文字表記も「キリル文字」が採用されます。それまでつかわれていた「ウイグル文字」をつかうことは厳禁とされました。

モンゴル国の誕生

1991年のソ連解体の影響は、すぐさまモンゴルにも及びました。

1992年モンゴルは社会主義体制を放棄し、議会制民主主義を導入します。同年に国名も「モンゴル国」へと改められ、モンゴルは民主国家として新たなスタートを切りました。

ロシアの意向を伺う必要がなくなったモンゴルでは、懐古主義がブームとなります。ロシア語を撤廃したり禁じられていた蒸留酒を造ったりといった動きが見られ、ロシア支配前のモンゴルを取り戻す動きが加速しました。

また、社会主義時代のモンゴルでは、観光客の移動や行動も制限されていました。しかし民主化以降、モンゴル政府は観光業を産業の基幹として、積極的に観光客誘致を行っています。

モンゴルにはまだ知られていない・観光客があまり訪れない観光スポットがたくさんあります。アジアを行き尽くした人も、楽しめる場所が、きっと見つかるでしょう。

日本とモンゴルの関係

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日本人とモンゴル人は、外見がよく似ているなどと言われます。来日している相撲取りなどを見て、「日本人と区別がつかない」と感じる人は少なくありません。そんなモンゴルと日本は、現在までにどのような係わりを持っているのでしょうか。

ここからは、日本とモンゴルの関係について紹介します。

第二次世界大戦

日本とモンゴルが歴史的に関わったのは、先述した元寇と第二次世界大戦のときです。いわゆる「ノモンハン事件」で日本はモンゴルに大敗を喫し、北方侵略を諦めたといわれます。

ロシアの支配下にあったモンゴルにおいて、日本の印象はよいものとは言えなかったかもしれません。その証拠に、ウランバートルにある戦勝記念碑「ザイサン・トルゴイ」には、モンゴル軍とロシア軍が日本軍とナチスドイツ軍を破る様子が描かれています。

日本が第二次世界大戦に敗北すると、およそ1万2,000人あまりの兵士はモンゴルにて強制労働を強いられました。現在モンゴルにあるモンゴル国立中央博物館、市役所、モンゴル国立大学、国立オペラ劇場などは日本人捕虜によって建設されたものです。

経済的援助活動

戦後、1977年に日本はモンゴルと「経済協力協定」を結びます。とはいえ、社会主義時代のモンゴルへの支援は限られた分野のみで行われ、円借款などは供与されませんでした。

日本がモンゴルに円借款を与え、より本格的な経済援助を行うようになったのは、モンゴルが民主化して以降です。2005年と2010年の2回に渡って総額80億円供与したほか、「工学系高等教育支援計画」などにも取り組みました。

またウランバートルの大気汚染の深刻化に伴い、現在では大気汚染に関する測定技術や環境対策への技術指導も行っています。

2017年時点での日本からモンゴルへのODA支援は、およそ2,894億円。日本が積極的にモンゴルを支援してきたこともあり、現在のところ現地での日本人への感情は決して悪くはありません。

大相撲

出典あなたの道場♪「あこう堂」日記

モンゴルも日本と同様に「相撲」が国技です。モンゴルから日本の相撲部屋に入る若者も多く、たくさんの横綱も誕生しました。

モンゴル出身の力士が増えるに伴い、モンゴルでも日本の大相撲が放送されるようになります。1998年には、「旭鷲山」がモンゴル人として初の幕入り。これによりモンゴルでも日本の相撲ブームが巻き起こったそうです。

また2003年には、朝青龍がモンゴル人として初の横綱に昇格。その後白鳳、鶴竜なども横綱となり、モンゴル出身力士の強さは日本国民が広く知ることとなりました。

現在のところ、日本相撲協会に所属するモンゴル人力士は21名だそうです。(2021年4月時点)そのうち2名は横綱ですから、その強さは圧倒的と言えますね。

まとめ

騎馬民族が支配するモンゴル高原では、さまざまな部族が覇権を争ってきました。中でも圧倒的な強さと支配力を誇ったのはモンゴル帝国、すなわち元です。世界史上最大版図を持つ大帝国は東西文化が交わるきっかけを作り、世界史に大きな影響を与えました。

その面影は現在でも残っており、ウランバートルやカラコルムなどに足を運べば、モンゴルの歴史を如実に感じることができるでしょう。

日本からモンゴルまでは、直行便でおよそ5時間30分程度です。気軽に行ける距離なので、もう少し情勢が落ち着いたら出掛けてみてはいかがでしょうか。