モンゴルの相撲「ブフ」について知ろう。日本の大相撲との違いは?

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日本相撲界初のモンゴル人力士が土俵を踏んだのは、1992年のこと。30年近くが過ぎた現在、彼らの華々しい活躍から、多くの日本人は「モンゴル人力士は強い」というイメージを持つようになりました。

彼らの強さのルーツは、母国・モンゴルの「モンゴル相撲」にあると言われます。モンゴル相撲とはどのようなものなのでしょうか?本記事では、モンゴル相撲・ブフについての詳細や日本の大相撲との違いについて紹介します。

モンゴル相撲とは?

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出典:A. Omer Karamollaoglu

モンゴル相撲は、現地では子どもから大人まで幅広く楽しまれている伝統的な格闘技です。ブフの出身者が日本の大相撲で大活躍するケースも多く、両者にはよく似た部分があります。

モンゴル相撲とはどのようなものなのか、概要を紹介します。

「ブフ」と呼ばれる伝統的な格闘技

モンゴル相撲は、モンゴルでは「ブフ(bökh)」と呼ばれます。これは、モンゴル語で「忍耐力」「耐えぬく力」などという意味です。日本の相撲と同様に男性が1対1で組み合って戦い、相手を倒した方が勝者となります。

1対1で戦うスポーツはプロレスやボクシングなどもありますが、ブフはより日本の相撲スタイルに似ています。蹴ったり打ったりはなく、組み合って相手を倒すスタイルです。

勝利するためには下半身の力や体幹の強さが非常に重要なため、ブフの強者が日本の相撲の強者となるのも納得できるでしょう。大横綱・白鳳関や第68代横綱・朝青龍関なども、子どものころにブフで優秀な成績を収めていたそうです。

主な流派は2つ

日本の大相撲に流派はありませんが、ブフにはさまざまな流派があります。中主流とされるのが、主にモンゴル国で行われる「ハルハ・ブフ」と主に内モンゴル自治区で行われる「ウジュムチン・ブフ」です。

両者の違いは、主に次の3点があります。

  • 衣装
  • 入場のパフォーマンス
  • 勝敗の付け方

まず衣装は、ハルハ・ブフの方が簡素です。派手な装飾はなく、下半身はレスリングパンツのようなものとブーツのみを着用します。これに対し、ウジュムチン・ブフは装飾の付いたベストを羽織り、白くゆとりのあるパンツを着用するのが一般的です。

また、ブフに欠かせない入場のパフォーマンスも、両者に違いが見られます。ハルハ・ブフでは、力士は試合前に「鷹」に扮して舞い踊るのが習わしです。一方、ウジュムチン・ブフは「鹿」の姿を模しながら会場入りします。

モンゴル国民に広く親しまれている

モンゴルのブフは、日本の相撲よりもより社会に溶け込んでいるスポーツと言えます。職場や地域単位でブフのグループがあり、ブフを楽しむ機会は少なくありません。

日本でもかつては子ども相撲や相撲大会などが身近にありましたが、現在は廃れてしまいました。しかしモンゴルでは、いまだにブフは国民にとってとても身近な存在なのです。

ブフが社会に深く根付いていることから、モンゴルにおけるブフの横綱の社会的地位は非常に高いと言われます。横綱は政治家や芸能人よりも親しまれ、尊敬されているのだとか。

例えば、白鳳関の父親「ジグジドゥ・ムンフバト」氏は、モンゴル相撲で通算6回の優勝を果たした大横綱です。1968年のメキシコオリンピックでモンゴルに初の銀メダルをもたらしたことでも知られており、国民的英雄として尊敬されていました。

このほか、朝青龍関の兄で現ウランバートル市長であるドルゴルスレン・スミヤバザル氏も、モンゴル相撲では名の知れた存在です。人々の支持が篤かったことから2012年に国会議員に転身し、鉱業・重工業大臣にまで上り詰めています。

モンゴル相撲「ブフ」の歴史

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出典:Mark Fischer

モンゴル相撲「ブフ」の歴史は、紀元前にまで遡ると言われます。ブフの始まりから現在までを見ていきましょう。

モンゴル相撲の始まりは新石器時代?

日本の国技である相撲についての最古の資料はせいぜい2000~1500年前のものです。古事記(712年)や日本書紀(720年)などにある力くらべの行事が、今日の大相撲の源流と考えられています。

一方、モンゴルのブフについての最古の資料は、新石器時代に描かれたバヤンホンゴル県にある洞窟壁画です。これは紀元前7000年ごろに描かれた壁画で、現在から約9000年も前のものと推定されています。壁画には相撲のように組み合っている2人と、それを取り囲む群衆の姿が描かれていました。この壁画をエビデンスとして、モンゴルのブフは紀元前から存在したと言われるのです。

ただし、ブフの発生について推察できる明確な文献的史料はありません。そのため、ブフがどのように発生し、発展していったのか、詳細を知るのは不可能です。現在のところは、部族が乱立する遊牧生活の中で、ブフが自然発生したのではと考えられています。

モンゴル高原は自然環境が厳しい上、さまざまな部族との対立もありました。身体訓練は不可欠であり、強さ・屈強さが重視されていたことは間違いありません。人々は自身の強さを誇るため、ブフに取り組んだのでしょう。

国が変わってもモンゴル相撲は継承された

モンゴル高原で最初の遊牧国家を作ったとされるのは「匈奴」です。彼らの軍隊は強大で、組織的に軍事訓練を行っていたと言われます。ブフは、競馬・弓と並んで匈奴の兵士の基礎となるものでした。

また、匈奴の部族の長たちは、折々に集まって選ばれた戦士にブフを取らせたと言われます。自分たちが楽しむ意味もありますが、主にブフを天や祖先たちに捧げるためです。「ブフが神に捧げられるものだった」という点は、日本の相撲の始まりと非常に類似していると言えるでしょう。

匈奴の後、モンゴル帝国誕生までに草原の覇者は次々と変わります。鮮卑、柔然、テュルク、ウイグル、契丹がモンゴル高原を支配しましたが、いずれの国の支配下でも、ブフの習慣が廃れることはありませんでした。

特に10~12世紀にかけてモンゴルを支配した契丹では、ブフの発達が顕著だったと言います。

1939年に見つかった当時の壺にはブフの力士の姿が描かれており、契丹(遼)でのブフは今日のハルハ・ブフに非常に近いものだったことが分かりました。契丹の時代にはブフに関する文献的な史料も比較的多く残っており、当時すでに「ブフの力士の社会的地位が高かったこと」「体重・年齢・時間の制限がなかったこと」「取り組みの場所を問わなかったこと」は、現在と同様です。

モンゴル帝国時代のモンゴル相撲

13世紀にチンギス・ハーンがモンゴル帝国を興すと、ブフは軍事訓練の一環として取り入れられるようになります。当時の将軍たちの中には、ブフの猛者として知られる者も少なくありませんでした。

また、同時に、当時のブフは兵士や一般人たちの娯楽だったと言います。チンギス・ハーンは戦に勝利して戻ると、必ず盛大な祭を開きました。そこでは必ずブフが開催され、兵士から一般人まで、熱狂的に力士たちの戦いを楽しんだのです。

祭りでは弓・競馬を競うのが一般的で、現在のモンゴルの国民的行事「ナーダム」の原型であると言われます。

清王朝時代のモンゴル相撲

17世紀に入って女真族の王朝「清」が興っても、ブフの習慣が途切れることはありませんでした。清王朝の支配階級の中にもブフを好む人は多く、選ばれた力士が皇帝の前で取り組みを行うこともあったそうです。

清王朝は、基本的にモンゴル民族の文化を尊重しました。ブフやナーダムが禁止されることはなく、新たなナーダムも定着しています。
例えば、以下のナーダムは新王朝時代に生まれ、社会主義政権が誕生する前まで行われていました。

  • 7旗のダンシグ・ナーダム
  • 10ザザグのナーダム

「ダンシグ」とはチベット仏教の活仏の長生を祈って行われる儀式です。清王朝時代モンゴルではチベット仏教が広まり、人々はチベット仏教の活仏を崇拝していました。このナーダムは1640年から1912年まで続いたそうです。

一方10ザザグのナーダムは、モンゴルの統括的な役割を果たした10の部族の長に捧げられたものです。これがその後全国規模にまで拡大し、1924年まで続きました。

社会主義時代のモンゴル相撲

1921年に「モンゴル社会主義人民共和国」が誕生し、モンゴルは独立国家としての歩みを始めます。しかし、独立したとはいえは旧ソ連の影響力は大きく、モンゴルで行われる政策のほとんどは旧ソ連政府の意向を反映したものでした。

モンゴル文字や仏教の信仰などは旧ソ連によって禁止され、モンゴルの文化は激しい弾圧を受けています。

そんな中、ナーダムだけは弾圧の対象とはなりませんでした

ナーダムはモンゴルの自由の象徴・国民団結の象徴とされ、社会主義的な民族行事として継続され、ブフの取り組みも認められています。1960年から1990年まではブフの全国大会なども開催されており、社会主義政府の制約下でも、ブフは国民が熱狂できる数少ない民族行事でした。

現代のモンゴル相撲

現在、モンゴルのナーダムやブフについては「ナーダム関連法」が設けられており、ルールや制度は法律によって規定されています。
モンゴル相撲協会がブフの管理・監督を務め、ブフの力士の育成を行っているそうです。

現在、モンゴルのスポーツ大学ではブフの力士や監督を育成されているコースも設立されているとか。7月のナーダムやお正月はもちろん、その他さまざまな記念日にブフが開催されるようになりました。政党、会社、軍隊などの主催する大会も増え、2007年だけで33回の大会が開催されたそうです。

また、1997年にはブフのプロリーグも設立されました。現在はセミプロの力士たちも多数活躍しています。

モンゴル国民のブフへの関心は高く、国民の9割以上がブフに関心を寄せているとか。モンゴル人の国技である相撲への愛着は、日本人の大相撲へのそれを上回ります。

モンゴル相撲の流れ・ルール

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出典:Edwin Lee

モンゴルで古代から親しまれてきたブフは、日本の大相撲とは異なるルール・しきたりがあります。ここからは、ハルハ・ブフの流れやルールについて紹介します。

参加できる人

ブフはボクシングや柔道のようなクラス分けがありません。体重・年齢の制限はなく、18歳以上の男性なら誰でも参加可能です。

ただし、参加人数には決まりがあります。例えば、最も大きな国民行事といえるウランバートルのナーダムでは、ブフの出場者は「8の倍数」と決められており、毎年512名の参加者が集います。

モンゴル誕生800年を祝って行われた2006年の記念ナーダムでは、通常の倍・1024名もの力士が集まって頂点を目指したそうです。

取り組み前

ブフの参加者は、大きなテントで着替えます。「マルガイ(将軍帽)」と呼ばれる先の尖った帽子を着用し、ベスト、パンツ、ブーツを身に付けるのがしきたりです。着替え終わったら外に出て、鷹の舞のパフォーマンスを行ってから試合を行います。

ブフのベストは、基本的に前が閉まらないサイズ感です。知らない人が目にすると、「小さすぎるのでは?」と感じるかもしれません。しかしこれは、性別をごまかす者が出ないようにあえて改良された結果です。

その昔、ブフで大勢の力士たちをなぎ倒し、優勝を勝ち取った強い力士がいました。その力士は優勝が決まったとき、高らかに自分は女性であると宣言したそうです。

ブフは日本の大相撲と同様、女人禁制の競技とされています。この事件があってから、ベストは胸が露出する形に変更され、女性のブフへの混入を防ぐようになりました。

取り組み

それぞれが舞を舞ったら、いよいよ取り組み開始です。

ハルハ・ブフでは、頭・肘・膝・背中・尻のいずれかが地面に付いた方が負けとなります。手のひらは付いてもOKなので、日本の相撲とは若干違うと言えるでしょう。土俵がない分レスリングに近い一面もあり、技の数は600種類を超えるとも言われています。

ハルハ・ブフの「体の一部が地面に付いたら負け」というルールは、遊牧国家ならではの戦士の戦い方に因んでいるそうです。

常に馬に乗っている遊牧民にとって、体の一部が地面に付くことはその人が落馬したことを意味します。戦場ならば、敵にとどめを刺されるか馬に踏まれて命を落とすかしかありません。ブフで体の一部を地面に付けることは「それで終わり」ということなのです。

取り組み後

相撲に勝った力士は、3回ほど鷹の羽ばたきのまねをします。一方、負けた力士は相手の元へ行き、腹紐をほどいてから勝った力士の脇の下をくぐるのが習わしです。この所作は「タヒム・クグゥ」と呼ばれ、「勝者を尊敬し、敗者は去ります」という意味が込められています。

このとき勝った力士は負けた力士を抱きしめることで勝利を確定させ、介添人から帽子をかぶせてもらうこととなります。そして、鷹の羽ばたきをまねながら会場中央部まで移動し、そこにある幟を一周したら、その試合は終了です。

モンゴル相撲と日本の相撲の違い

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日本の大相撲としばしば比較されるモンゴルの相撲、ブフ。両者はどちらも「相撲」と言われるものの、内容は同じではありません。どのような点が異なるのか見ていきましょう。

土俵がない

まず、ブフには土俵がないのが特徴です。日本のように土俵際で激しい競り合いが起こったり、押し出し・寄り切り等の決まり手で勝敗が決まったりすることはありません。

あくまでも「どちらかが地面に体の一部を付けたとき」に勝敗が決定します。

衣装を着る

前述の通り、ブフでは力士は決められた衣装を着用します。小さいベストである「ゾドグ」に「ショーダグ」と呼ばれるパンツを身に着け、帽子、ブーツを合わせるのが正式なスタイルです。

このほか、階級の高い力士はマントを羽織ったり金や銀の装飾の付いた帽子をかぶったりすることもあります。

衣装の色については特に決まりはないようですが、「青」「水色」「赤紫色」などを選ぶ力士が多いようです。中でも青は定番の色で、「永遠に空に向かって上昇していく」という縁起のよい意味があります。

時間制限がない

ブフには、制限時間がないのも特徴です。

過去のナーダムでは試合の決着が付かず、勝敗を決めるのに3日かかった試合もあったと言われます。

身体能力が同程度の力士なら、どちらかがバテるまでは決着が付きません。土俵もないので、勝負が長期可しやすいのは仕方ないと言えるでしょう。

ちなみに、日本の大相撲では1928年より制限時間が設けられています。これはラジオの放送時間に合わせたもので、幕下以下は2分、十両は3分、幕内は4分で決着を付けなければならない決まりです。

動きが立体的

モンゴル相撲は「相手を地面に倒す」という動作をしないと勝てません。土俵から相手を押し出しさえすればよい日本の大相撲と比較すると、力士の動きは立体的です。前と後ろの動きがメインとなる日本の大相撲とは、技の掛け方が異なります。

その昔、「技のデパート」と呼ばれた旭鷲山関は、モンゴル相撲の技を大相撲向けにアレンジしていたとか。モンゴル人力士が強い理由の一つには、大相撲にはない技の多彩さもあるのかもしれません。

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番付の決め方

モンゴル相撲にも大相撲と同様に番付があります。しかし「横綱審議会」などというものはなく、夏のナーダムで行われるブフでの勝利数が全てです。

モンゴル相撲の称号については、以下を確認してください。

番付 順位・条件
ナチン(隼) 16位(5回戦の勝者)
ハルツァガ(大鷹) 8位(6回戦の勝者)
ザーン(象) 4位(7回戦の勝者)
ガルディ(迦楼羅 ガルダ=神鳥) 2位(準優勝/8回戦の勝者)
アルスラン(獅子) 1位(優勝/9回戦=決勝戦の勝者)
アヴァラガ(巨人) アルスラン称号の力士が再度優勝
ダヤン・アヴァラガ(世界の巨人) アヴァラガが再度優勝
ダルハン・アヴァラガ(聖なる巨人) ダヤン・アヴァラガが再度優勝

モンゴル相撲はトーナメント制ではありますが、タイトルを持っている強者は「好きな相手を指名できる」というアドバンテージがあります。決勝戦に近づくに連れて本当の強者のみが残るため、見ごたえは十分でしょう。

モンゴル相撲を通してモンゴル文化を身近に感じよう

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モンゴル相撲・ブフは、モンゴルでは紀元前から親しまれてきた格闘技です。長い歴史をもつブフをモンゴル人はとても大切にしています。「相撲が文化の一部」という点は日本と同じと言えるでしょう。

相撲の成り立ちや伝統・背景は異なるものの、「相撲つながり」でモンゴルに親しみを持つ日本人や日本に親しみを持つモンゴル人は少なくありません。日本の相撲と同様に、モンゴル相撲にも注目してください。

「モンゴル相撲を生で見たい」という人は、7月11日の革命記念日から3日間行われる、ウランバートルのナーダムに行くのがおすすめです。この日はモンゴル国中から相撲の猛者が集結し、ブフの取り組みを見せてくれます。日本の大相撲とは一味違った、モンゴルならではの伝統を楽しんでみてはいかがでしょうか。