国土のほとんどを大草原に覆われるモンゴル。
同じ東アジアの国家として、日本との関係性も深く、昨今では官民共に友好的です。
モンゴルと言えば、遊牧民族というイメージが皆様の頭にあるかもしれませんが、実際に現在も放牧をメインに生活しているモンゴル人はわずか1割に過ぎません。
ほとんどのモンゴル人が現在はウランバートル市に在住し、定住化が進んでいます。
しかし、現在のモンゴル人は大人から子どもに至るまで、モンゴル帝国時代とチンギス=ハンを誇りに思っています。
モンゴル帝国が強かったという事実は世界的にも有名です。
本記事では、モンゴル帝国軍がなぜ強かったのかについて徹底的に解説していきます。
モンゴル帝国は世界最強だった?
モンゴル帝国は1206年に成立した、遊牧国家(ウルス)です。
長い間、モンゴル高原にはまとまった国家がありませんでした。そもそも遊牧民族には定住するという文化がなく、国家が成立しにくいという背景もあったためです。
モンゴル帝国成立以前はモンゴル高原で多数の部族が割拠し、他国家に侵略しては略奪するといったようなことを繰り返していました。
モンゴル人は互いに結束力が弱く、結果、遼や金といった統一国家によって13世紀まで支配されていたという歴史があります。
ところが、13世紀に入るとその状況が一変。
テムジンが登場したのです。
テムジンはその歴史に名を刻んでから、破竹の勢いでモンゴル部族を統一します。
その結果、モンゴル部族の集会、クリルタイで皇帝を意味する「ハン」を授かり、チンギス=ハンと称するようになりました。
チンギス=ハンの猛進はモンゴル高原だけにとどまりません。
即位したチンギス=ハンはまず、南の西夏に侵攻。これを服属させます。
さらに、1211年にはそれまで押し込まれていた金に侵攻。大勝利をおさめました。
金を破ったことにより、東アジアの強大国の地位を確固たるものとし、その目は中華大陸やヨーロッパにまで向くようになります。
チンギス=ハンの子孫であるオゴデイやモンケ、クビライはモンゴル帝国の祖の思想を受け継いで侵略に次ぐ侵略を果敢。
結果、最終的には全世界の20パーセントを超えるほどの面積を有する大帝国を築き上げました。
モンゴル軍の強さの秘訣とは
モンゴル軍が破竹の勢いで世界を侵略できたのは、国土が豊かだったからというわけではありません。
現在のモンゴル高原を見てもらってもわかるように、モンゴルは国土のほとんどが砂漠と草原です。
農業が発展せず、どちらかというと貧しい地域でした。
そのような地域から一大帝国が生まれたのには、しっかりとした理由があったのです。
生活と騎馬との密接な関係
モンゴル人と馬は切っても切り離せない関係性にあります。
騎兵という兵科は日本を含め、全世界でも発展し続けてきましたが、騎馬には専門的な技術が必要であり、誰しもが出来るというものではありませんでした。
そのため、一部の特権階級しか扱えなかったのです。
ところが、モンゴル人は違います。
騎馬をすることは生きることに直結するため、子どもの頃から騎馬を叩き込まれます。
モンゴル人は歩くよりも先に馬に乗るとまで言われるほどです。
モンゴルの少年達は幼いころから乗馬をし、彼らを手足のようにして扱い、馬上から弓を放って生活をしていました。
農耕民族の国家では、熟練した騎兵を獲得するのに時間とお金がかかるのに比べると、対極的と言えるのではないでしょうか。
中央集権制の確立
モンゴル帝国が成立する以前は、部族長が亡くなったり倒されると、その部族が一気に統率を失ってしまうということがありがちでした。
それが遊牧民族が中華大陸に中々侵入できなかった大きな要因であったと言われています。
しかし、チンギス=ハンが登場してからは違いました。
部隊を千戸、百戸、十戸に分け、それぞれに司令官や指揮官を置いたのです。今で言う、師団や旅団と似たようなものであると言われています。
そのため、十戸の隊長が倒されてしまったとしても、百戸の隊長が補填するといったような部隊連携がとりやすくなり、軍の崩壊が起きにくくなりました。
抗争に事欠かない立地
これは、モンゴル帝国にとって、いい話ではなかったのですが、周りが強敵だらけであったということもモンゴル帝国の強さを語る上では外せません。
モンゴル帝国が未だモンゴル高原だけを領有するのみだったころ、周囲は女真族が打ち立てた金、文明レベルの高い契丹人が打ち立てた遼といったような群雄が割拠していました。
モンゴル帝国が世界に名を轟かすには、そういた強国に勝たなければならなかったのです。
強国との戦がそのままモンゴル帝国軍の戦闘訓練になり、練度を高められます。
そして、強国に打ち勝ったという経験が自負となり、さらに帝国軍を強くしていったのです。
機動力の高さ
遊牧民族がなぜ強かったのかということを考える際、機動力の高さを語ることは外せないでしょう。
当時の軍隊はどのような国であっても、食料は自給自足、現地調達が基本でした。
兵站という概念がなかったのです。そのため、無理な遠征はできませんでした。
ところが、モンゴルは違います。
進軍と共に牛馬や羊といった家畜を連れ、ゲルと呼ばれる移動式の家も持ち運んだ彼らは、どのような場所にでも駆けつけることができました。
優れたアウトレンジ作戦
狩猟民族であるモンゴル人は農耕民族に比べても格段に弓の扱いが上手です。
馬上で弓矢を正確に射るということは、イメージよりもずっと難しく、中国大陸やヨーロッパで出来る人は限られました。
しかし、前述の通り、モンゴル人は皆、幼少の頃から手足のように馬を扱い、獲物を追いかけまわしていたため、敵の射程圏内に入る前に弓矢を放つことができたのです。
前哨戦において、弓矢で遠隔、尚且つ安全圏から敵兵を削り、あとは重騎兵に突入させて勝利をおさめるというやり方はモンゴル帝国軍ではよくあることでした。
統率力の高さ
モンゴル軍は統率力も高かったと言われています。
モンゴル帝国が活躍していた時代、洋の東西を問わず、乱戦が基本でした。
例えば、日本の鎌倉武士の場合、大雑把な指示だけを受け、あとは一族郎党が各々勝手に戦うといったような感じです。
しかし、モンゴル軍は違います。
退却や進軍の指示を太鼓や銅鑼の音で伝令します。
そのため、退却したふりをして、奇襲をかけていくといたような複雑な戦法を全部隊単位で取ることができたのです。
新兵器の導入
モンゴル軍は侵略中でも、その地域にある新兵器の研究を欠かしません。
元々、モンゴルの高原で戦う民族であったために、ヨーロッパでままある攻城戦は苦手とされてきました。
しかし、投石器や火薬兵器といった新技術・新兵器を柔軟に取り入れ、騎馬だけでない強さを見せるようになったのです。
装備の重要性
ヨーロッパの騎兵が華美で重い西洋鎧を身に着けていたのに対し、モンゴル軍は非常に軽い革製のコートを身に着けていました。
ヨーロッパ騎兵が鈍重であるのに対し、モンゴル軍は高い機動力を売りにしていたのです。
しかも、革製のコートは防弾チョッキのような役割をしており、矢の貫通力を軽減して命に関わる事態を防ぐこともできました。
モンゴル帝国の主要な戦争・戦闘
このように、モンゴル軍の強さの秘訣は同時代の他国軍と比べても圧倒的に多いことがわかりました。
ここからは、モンゴル帝国が経験した主要な戦争と戦闘を学んでいきましょう。
対金戦争
モンゴルを統一したチンギス=ハンがまず対峙しなければならなかったのは、満州地域の強国金でした。
1211年、ついに金と開戦したモンゴル帝国は本拠地にほとんど兵を残さず、金との戦争にあてたのです。
まさに、モンゴル帝国からすると総力戦。負ければ滅亡は免れなかったでしょう。
まずは内蒙古にいた、契丹系遊牧軍団を服属させます。金の精鋭部隊からまず削っていきました。
攻城戦には何度か失敗をするものの、野戦では負け知らず。
結局、金の国でクーデターが起きたこともあって一時休戦。戦争の結果、モンゴル帝国は東アジアの強国として位置づけられるようになりました。
しかも、対金戦争で得た攻城戦の経験は、後の征服戦争にも役立てられることになったのです。
その後、第二次対金戦争では、首都開封を陥落させ、金の全領土を手に入れました。
ワールシュタットの戦い
ヨーロッパを震え上がらせた戦争として、ワールシュタットの戦いははずせません。
モンゴル帝国第二代皇帝オゴデイは各地への遠征を決定。その結果、西方遠征軍の総大将のバトゥに5万人のモンゴル兵と2万人の徴用兵が与えられました。
その兵力を以ってロシアのキエフ大公国、ハンガリー王国といった東欧諸国を蹂躙。
ついにポーランドにまで進撃をします。
ワールシュタットでは、ポーランドとドイツの連合軍が待ち構えていました。ヘンリク2世を始めとするポーランド軍、ドイツ騎士団総勢2万5千人程度であったと言われています。
対するモンゴルがワールシュタットに動員した兵力は2万人。
しかし、モンゴル軍はこの数的不利をもろともしません。敵陣地中心への切り込みを得意とするヨーロッパ騎士団に対し、モンゴル軍はまず弓矢で牽制します。
前方を蹂躙すると、息のつく間も与えず、モンゴル重騎兵が突入。一瞬の内にドイツ・ポーランド連合軍は総崩れ。
ヘンリク2世を始め、多数の兵士が戦死しました。
ワールシュタットの戦いの結果はヨーロッパの全人民を震え上がらせましたが、当のモンゴル帝国にとっては、自分達がいつもやっていることをやっていたにすぎず、局地的な勝利としか捉えていなかったようです。
バグダートの戦い
今現在に至るまで、様々な意味で影響を残したのはバグダートの戦いだと言われています。
既に斜陽にあったアッバース朝のとどめを刺した戦いです。
首都バグダートに立てこもる5万人のバグダート兵に対し、モンゴル軍はなんと12万人。
堅牢を誇るバグダートがわずか10日と少しで壊滅しました。
しかも、その際モンゴル軍が行った破壊活動はすさまじく、市井の住民を殺して回り、歴史的に貴重な書物を悉く燃やしてしまったのです。
結果、アッバース朝以前のイスラム教を知ることができる資料が限りなく減ってしまいました。
世界史において、バグダートの戦いがなければ、もっともっと研究が進んでいたとされています。
モンゴル軍は残酷で卑劣だったのか?
こう見てみると、モンゴル軍がいかに残酷で熾烈であったのかばかり目につきます。
特に、バグダートの戦いについては世界史においても類を見ない大虐殺でした。
しかし、実際のモンゴル軍はどこもかしこもこのような残虐行為を行っていたわけではありません。戦う前に従う勢力に対しては寛大な処置をとっていました。
信じる宗教も文化も話す言葉も自由と、後の世に出てくる帝国主義的な勢力に対し、その支配体制は非常に緩やか。
それが後の世界の発展にもつながり、いつしかパクスモンゴリカという時代が訪れます。
しかし、その爪の甘さがモンゴル帝国の斜陽を生むことになりました。
モンゴル帝国軍の斜陽
そんな強かったモンゴル帝国も滅亡へと向かいます。
元々、衰退する内部的要素の多かったモンゴル帝国は長期的な政権を築く前に内側から瓦解していきます。
そしてそこに外部的な要因も組み合わさり、世界最大のモンゴル帝国は滅亡していくのです。
明の成立による、中華大陸の放棄
1351年に起きた、紅巾の乱を皮切りに、中華大陸各地で反乱が勃発。
紅巾軍をまとめ上げた朱元璋によって明朝が成立してしまいました。
攻めるのは強かったモンゴル帝国ですが、意外にも攻められるのには脆く、弱体化していたとは言え、いとも簡単に中華大陸を放棄してしまいます。
その結果、元居たモンゴル高原に退却。こうしてモンゴル帝国の盟主であった大元ウルスは滅亡。
東北アジアの一国に成り下がってしまったのです。
女真族の台頭
その北元は1600年まで存在しましたが、ついに滅亡します。
満州地域に自分達が滅ぼしたはずの女真族が台頭してくるのです。
女真族はヌルハチを皇帝とし、後金を建国。北元を圧迫し始めます。
耐えきれなくなった北元は1635年に降伏し、玉璽を後金皇帝に譲ることに。
ここに、歴史上からモンゴル帝国の名が消えることとなりました。
まとめ
現在のモンゴル国軍は・・・?
さて、中世においては世界中を震撼させていたモンゴル軍ですが、現在のモンゴル国軍はどうなっているのでしょうか。
1920年代~1990年代にかけ、共産主義の影響が強かったモンゴル国軍は、未だにソ連製・ロシア製の武器を多数所持しています。
中ソが対立していた頃はソビエト連邦と中華人民共和国との緩衝地帯として、ソビエト連邦から、多数の軍事的優遇処置を取られていたそうです。
冷戦終結後、モンゴル国軍は海外協力と災害対策という2本柱を明確に掲げ、イラク戦争・コンゴPKO活動の参加といったような活動も行っています。
モンゴル帝国軍時代とは打って変わって平和主義路線になったみたいですね。